ある通商国家の興亡 の商品レビュー
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さすが哲学科出身である、すぐにカルタゴには入らず、人間の歴史を、「陸の民」、「海の民」に分ける、ドイツ政治学者カール・シュミットの「陸と海」から入る。地球は3/4が海であり、「地球(エルデ)」ではなく、「海球(ゼーバル)」であるというところから始まる。 このシュミットは人類の進歩・発展を根源的な発想で追及しておりユニークである。 『シュミットは、「世界史的一考察」の出発点である、「人間は大地の子なのか、それとも海の子なのか」の設問し、「世界史は、陸の国に対する海の国のたたかい、海の国に対する陸の国のたたかい」と宣言する。そして、ギリシア、ローマ、ヴァイキング、ビザンチン、ヴェネチア、そして大航海時代のスペイン、ポルトガル、そして、その地位を奪ったオランダ、そして大英帝国までの歴史を見事に描いた』そうだ。そう言われてみると、妙に納得してしまう。 しかし、作者の立ち位置は、哲学者的超時間的な空間ではなく、本が書かれた80年代後半の日本の立ち位置で、日米貿易摩擦、エコノミック・アニマルと非難(自虐的な観もあるが)され、経済的に黄禍論が囁かれた時空である。作者は、この状況がカルタゴの状況に相似していることを言いたいのだろうが、哲学者的にはどうだろうか。その後、カルタゴは滅んだが、一方日本は。更に、この立ち位置は歴史書としてもどうだろうか?この本が、この時点のドキュメンタリー扱いが妥当となってしまうではないかの危惧の念が湧いてくるが。 本書は、『カルタゴの歴史は文明の浅薄さと脆弱さをはっきり示している。それは彼らが富の獲得だけに血道をあげて、経済的な力のほかに、政治的な、知的な、論理的な進歩をめざそうと、何の努力もしなかった、ということである。』とある史家の記述を引用し、カルタゴの“遺書”として“人間は金銭のみに生くるにあらず”という教訓で終わっている。 カルタゴは文字を持っていたが、記録を残すことはしなかったといわれているため、これらの記録はすべて征服者側に立っての記述であり、これは自分の歴史を正当化するための歴史であることはいうまででもないであろう。しかし、筆者はそこまで踏み込んではいない。本当に、カルタゴは『政治的な、知的な、論理的な進歩をめざそうと、何の努力もしなかった』のであろうか。こう結論付ければ、話は簡単で、この本が書かれた当時の日本の警鐘としては効果があっただろうし、本も売れたかも知れないが、哲学者、社会学者として筆者の立ち位置としてはどうであろうか。凄惨極まりない玉砕を遂げたカルタゴ市民の怨念が聞こえてくるようである。カルタゴは十数日間燃え続け、すべてが一メールと以上の灰となってしまうのである。本当に我々が学ばなければならないのは、強者の歴史なのか。そこには強引までの征服者の論理しかないのではないか。本当に学ばなければならないのは、弱書、敗者の論理ではないかと痛感させられた一冊であった。
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森本毅郎の兄,森本哲郎の本。1989年発行。 特にローマとの戦争を中心に,カルタゴの盛衰を描く。 ハンニバルの足跡をたどって実際に象をアルプスに連れてくる行動力には驚くが, もはやカルタゴと重ねるべくもない現在の日本のありさまを見ると, いかにも古い。
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(2006.03.30読了)(2005.12.16購入) 副題「カルタゴの遺書」 塩野七生さんの「ハンニバル戦記」を読んだので、カルタゴについて書いた本がほかにもあったことを思い出した。積読の中から探し出して読んでみた。 「ハンニバル戦記」が出たのが1993年に対し、「ある通商国...
(2006.03.30読了)(2005.12.16購入) 副題「カルタゴの遺書」 塩野七生さんの「ハンニバル戦記」を読んだので、カルタゴについて書いた本がほかにもあったことを思い出した。積読の中から探し出して読んでみた。 「ハンニバル戦記」が出たのが1993年に対し、「ある通商国家の興亡」は1989年なので、森本さんの本のほうが先に出ている。先に出ていて幸いだった。塩野さんの方が詳しいし、分かりやすいし、面白い。 森本さんの本は、カルタゴと日本をダブらせて考えており、カルタゴの生き方の中に日本の生きる道を探していることが、はっきり分かる点が出版当時共感を呼んだのだろうと思うけれど、塩野さんの本が出てしまうと、深さの違いが歴然としてしまう。 そういう意味で、「ハンニバル戦記」を読んだ後で、「ある通商国家の興亡」を読む事はなかった。(読んでしまったので、しょうがないないけど。) ●富(31頁) 冨とは-薔薇の花のようなものだ。誰にとっても、富は好ましく、望ましいものだが、そこには、きまってトゲがかくされている。トゲとは周囲からの羨望である。嫉妬である。そして、ねたみはついに敵意を醸しだす。欲望は憎悪の母だからだ。 ●商い(65頁) 売買とは、売り手と買い手の真剣な取引である。売り手は当然高く売ろうとし、買い手は少しでも安く手に入れようとする。したがって、その駆引きを行使しない人間は、間抜けか、あるいは商いというものを侮蔑した尊大な人間とみなされるのだ。 ●異様な性格(78頁) ギリシアやローマの都市遺跡に決まって見られる劇場や競技場といった娯楽施設が、カルタゴの町には全く見出せない。それは何を意味するのか。彼らはそうした愉しみを必要とせず、したがって、そんなものを建てようとしなかっただけの話である。ただやたらに働くだけで、人生の愉しみを享受しようとしない異様な性格だった。 ●ギリシアの哲学(91頁) ギリシアでは様々な哲学が説かれたが、総じて彼らの考えの根本は、物より心のほうが貴く、精神的な価値は金銭で買うことができず、測ることもできない、という確固とした信念だった。その高貴な精神的な価値を身につけるという目的のために、経済活動も、政治活動も、教育活動も、すべてが手段として意味を持つのだとギリシア人は考えていた。 ●カルタゴは(92頁) カルタゴは、ただ交易に明け暮れただけだった。ひたすら物質的な富を追求することのみにすべてのエネルギーを消耗させたのだ。当然、カルタゴの経済基地では、何の精神的な財も生まれなかった。人間とはなにか、人間らしく生きるとはどのような生活か、何のために働くのか、という反省を抱かず、徹底的なエコノミック・アニマルに終始したゆえである。 ●カルタゴの征服(104頁) カルタゴ人にとっては征服した都市を占領し、自分たちの町にするなどということは、関心の外だったのだ。領有することのわずらわしさを厭がったのであろう。カルタゴ人の目的はあくまで富みそのものであり、都市はそのための基地に過ぎなかった。 ●ポエニ(133頁) ギリシア人がポイニキコス(フェニキア)と呼んだ人々を、ローマ人はポエニといったのだ。ギリシア語でポイニケオスとは「赤」の意味である。赤い染料の発明者であるところからそう名付けられたのであろう。「ポエニ戦争」とは「フェニキア戦争」と同義である。 ☆関連図書(既読) 「タッシリ・ナジェール」森本哲郎著、平凡社新書、1976.01.08 「ゆたかさへの旅」森本哲郎著、角川文庫、1977.09.30 「そして-ぼくは迷宮へ行った」森本哲郎著、角川文庫、1979.09.30 「私のニジェール探検行」森本哲郎著、中公新書、1982.10.25 「フェニキア人」ゲハルト・ヘルム著・関楠生訳、河出書房新社、1976.04.15 「ハンニバル戦記 ローマ人の物語Ⅱ」塩野七生著、新潮社、1993.08.07 著者 森本哲郎 1925年 東京生まれ 東京大学文学部哲学科卒業 東京大学大学院社会学科卒業 朝日新聞東京本社入社 1976年 朝日新聞退社 以後、評論、著述に専念 (「BOOK」データベースより)amazon 古代、地中海を舞台に繁栄をきわめた小さな国があった。それは、カルタゴ。その歴史が現代日本に語りかけるものは何か?
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カルタゴの発祥からポエニ戦争、それから終焉までを著者のハンニバルルート(チュニスからイベリア半島を経てアルプスを越えてイタリアへ)旅行での経験なんかを織り交ぜて描く。 出たのが1989年、日本の経済が一番ガツガツしてた頃ってことか経済大国として栄えたカルタゴと日本を結構こじつけに...
カルタゴの発祥からポエニ戦争、それから終焉までを著者のハンニバルルート(チュニスからイベリア半島を経てアルプスを越えてイタリアへ)旅行での経験なんかを織り交ぜて描く。 出たのが1989年、日本の経済が一番ガツガツしてた頃ってことか経済大国として栄えたカルタゴと日本を結構こじつけにちかく重ねたりしてる。著者本人はそんなつもりはないと断ってますが。 読みやすかったしおもしろかった。海洋国家と内陸国家みたいな、地政学的な概念でローマとカルタゴの対立を考えるとあ〜ホントそうだなって思うし。第二次ポエニ戦争ではハンニバルについてそれなりに突っ込んでいてハンニバルにちょっと憧れた。 著者はカルタゴがこの世から完全に姿を消したのは金儲けだけに走ったからではって書いていて「日本は?」って問いを発していますがそれに関しては大丈夫でしょう。アニメやら漫画その他で日本のサブカルはかなり世界に浸透してます。 それから玉砕戦は悲惨だな…。日本が本土決戦を避けたのはよかったっちゅうこんづらな。
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