いま自分のために何ができるか の商品レビュー
「主体性の無いお前には、ほんとうんざり」と言われた。「そうやって自分の身体の不調を、誰かの所為にするの?」とも言われた。自分にとって、そういうつもりは無かった。毛頭から考えてもいなかった。でも、その人にはそういう風に僕が映ったのは事実だった。ショックだったし、辛かった。苦しかった...
「主体性の無いお前には、ほんとうんざり」と言われた。「そうやって自分の身体の不調を、誰かの所為にするの?」とも言われた。自分にとって、そういうつもりは無かった。毛頭から考えてもいなかった。でも、その人にはそういう風に僕が映ったのは事実だった。ショックだったし、辛かった。苦しかった。そんな時に手に取ったのが、この本だ。 新渡戸稲造氏の著書で最も有名なものは、言わずと知れた『武士道』である。英語版もアメリカを始め世界中で愛読され、日本歴史研究家からスポーツ選手に至るまで、その範囲は広い。その他にも有名な著書は多数あり、そのうちの一つが『修養』で、1911年に出版されたものだそうだ。 本書は、この『修養』を、竹内均氏が読み解き、現代に活かせる様に纏め上げたものであると思う。そのため、内容の概ねは『修養』そのものであると考えている。 新渡戸稲造氏の書籍は、そのほとんどが専門的な分野に特化したものはなく、人間の精神的な根本の部分、コモンセンスの部分について筆を取っている、という。実際に、本書でも「●を□□して~」などの具体的な手法については、全くと言っていいほど無い。その代わり、己を知り、己の人生を己の思うがままに突き進んでいくための心構えや努力について、力強い言葉で書かれている。 これまで振り返った中で、これ以上とも無く弱り萎んでいった私の心持ち、気持ちの中で、本書の言葉ほど、深く広く染み渡ったものは無いと思うほどだった。是非、原書を読みたいとも思っている。 私の言動の指針は、第三者無くしてあり得ない。憚らずに申し上げれば、自分の為の言動はあるにせよ、自分の為「だけ」の言動は決してすまい、と思っている。意識的に、自分「だけ」の言動を恥辱だと思っているわけでは、どうやらない。もやは無意識に動いているかのようでもある。 しかし、冷静に振り返ってみれば、第三者がいなければ、自分では何も出来ない、何の言動も起こすことは出来ないことの裏返しでもあるのだ。その事実を前に打ちのめされ、数ヶ月もの間、もがき、苦しんだ。いつまでそんな状況が続くのだろう、この状況から脱することは出来ないのではないか、と泣くことさえあった。更には、「自分が今この状況になっているのは、自分のこれまでの言動に大いに問題があったから」と、自分で自分のことを必要以上に批判し、蔑むことも。しかし、それでさえ自分で自分のことを冷静な目と判断力で見切っていない。それを知って更に自分を追い込む。負のスパイラルに陥ってしまう。こんな状況で、今の苦境を乗り越えることなど不可能だろう。 そんな人生を、社会人になってからも10年近く持ち続けながら邁進してきたのだから、ちょっとやそっとで抜けることではない。刻一刻と、自分が変化できるチャンスや選択肢が無くなり、または絞り込まれていく中、それでも、時間は容赦なく過ぎ去っていく。 本書で語られている、『克己心』『不平の種の楽しみ方』など、底なし沼に転じた自分の人生から這い上がっていく為の要素として書かれている。自分を律する力、それを得るためには、これまでのような人生を生きてきたのでは到底得られそうも無い。内面的な『自分探し』になると思うが、本当の意味での『克己心』を得るために、「今、自分は何をしたいか、何をすべきか、どういう方向で生きていたいか」を、もう一度原点からやり直して、見つめなおしていく必要がある。時間がかかるかもしれない。這い上がるスピードもたかが知れているかもしれない。それでも、進むことをしなければ、単に停滞していることと同じなのだから。
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