寺山修司 の商品レビュー
人間に不可能な認識はパースペクティブを持たない認識であると述べたのは市川浩だが、子供は夥しいパースペクティブの可能性にほとんどおぼれるようにして生きているといっていいだろう。大人になるということはこの可能性の火をひとつひとつ消してゆくことだ。そして最後には時代に支配的なひとつのパ...
人間に不可能な認識はパースペクティブを持たない認識であると述べたのは市川浩だが、子供は夥しいパースペクティブの可能性にほとんどおぼれるようにして生きているといっていいだろう。大人になるということはこの可能性の火をひとつひとつ消してゆくことだ。そして最後には時代に支配的なひとつのパースペクティブのもとに身を寄せる。だが、その洗濯は誤りだと寺山修司はささやくのである。あらゆる可能性に再び点火しなければならない。世界をもう一度見直さなければならない。なぜなら、「多次元のパースペクティブが錯綜する多重の過程」こそが生の現実にほかならないのだから、と。 p17 はじめに言葉がある。意識された言葉が。それからおもむろに語りたかったことがやってくる。意識された思想や感情が。--だが、この過程は、一瞬後には転倒している。本当は言葉が思想や感情を捉えたのに、人は思想や感情が言葉を捉えたのだと思い込む。・・・ p27 橋本多佳子は寺山修司にたんなる字句以上の影響を与えたと考えることができる。 恋地獄草矢で胸を狙い打ち p33 俳句は対象を切りとる文芸だが、短歌は歌う文芸である。 p51 寺山修司が短歌究新人賞を受賞したとき、句から歌へのこのような改変を激しく非難されたことはよく知られている。 p74 寺山修司は見事に演劇の本質を掴んでいるというべきだろう。だが掴まれたのは演劇の本質だけではない。詩の本質もまた同時に掴まれているのである。死者の人生を演じている巫女こそが詩人の原型ではないか、おそらく寺山修司はそう考えた。憑依状態が詩人の原型だからというのではない。憑依状態が言葉によってもたらされ、演じられているからである。巫女もまた詩人と同じように言葉を操る存在に他ならないからである。 p83 言うまでもなく、ロートレアモン伯爵とはイジドール・デュカスのことである。真の著者は長いあいだ幻の作者の背後に身を潜めていたのであった。 p99 死は存在しない。・・・ p105 寺山修司は、自分自身という謎を暴く過程で、この忘れられ隠蔽されていた事実をも暴いたのである。すなわち、演劇が危険な芸術であることを再び明らかにして見せた。自分も社会も国家も、一瞬のうちに瓦解するほどに脆い芸術であることを、演劇を通じて明らかにして見せたのである。しあも、演劇の魅力はまさにそこにこそ潜んでいるのだ。
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