自己への配慮 の商品レビュー
第2巻の古代ギリシアから、第3巻は1〜2世紀のローマに時代は進む。 いつものフーコーに比べると、淡々とした記述が印象的だった第2巻より、第3巻はさらにあっさりとして、さらに読みやすい。 テキストとして取り上げられるのは、当時の夢解釈の本だとか、医学的な養生術の本だとか、よくこ...
第2巻の古代ギリシアから、第3巻は1〜2世紀のローマに時代は進む。 いつものフーコーに比べると、淡々とした記述が印象的だった第2巻より、第3巻はさらにあっさりとして、さらに読みやすい。 テキストとして取り上げられるのは、当時の夢解釈の本だとか、医学的な養生術の本だとか、よくこんなの探して来たなというもので、そういうところは、いつものフーコーかな? 議論の構成は、第2巻とパラレルになっていて、養生術、夫婦関係、そして恋愛のあり方、それとの関係で同性愛の位置付けという順番で、ギリシャ時代とローマ時代との連続性と違うところが明確に論じられていく。 ここで論じられている倫理感というのは、結構、現代、あるいはちょっと前の日本の結婚観、道徳観と通じるものがあって、わりと普通に理解できる。また、そういうの大事だよねと共感できるところも多い。 第2巻の最後のほうで、プラトンの「饗宴」のするどい分析を通じて論じられた同性愛肯定論は、第3巻の最後のほうのプルタルコスなどの議論を通じて、夫婦間のお互いを尊重しあったパートナーシップみたいな議論によって、乗り越えられる。 といって、ローマでは同性愛が否定されていたわけではなく、それは好みの問題として、受容されていた感じなのかな? この辺のおおらかさも、また日本的な感覚に近い気がした。 ある意味、ここからキリスト教的な性に対する否定的な規律に変化した世界(第4巻に予定されていた「肉の告白」はそこを論じる予定だったと思われる)は、ちょっと遠くてわからないだろうな〜、と思った。 このことは、もしかすると、フーコーを読むときに、注意しなければならないところかもしれない。 フーコーは、西欧では、ギリシア、ローマの時代の倫理観が、キリスト教の時代には、「快楽」や「欲望」が否定される倫理観に変化したと捉える。そして、現在は、キリスト教的な倫理観を否定し、その抑圧からの解放が課題になっているようで、実は、「欲望」の否定が「欲望」の充足に変化しただけで、大きなフレームとしては同じところにいるのではないかと示唆しているわけである。 が、日本では、実質的にキリスト教的な「快楽」や「欲望」の否定という倫理を経験したことはないんじゃないかと思う。 この辺の違いを頭においておくことは、フーコーが西欧という文脈の中でいっていることを、日本で考えるときには、とても大切なことかと思った。 さて、この第3巻の読みどころは、結論部分よりも、むしろ第2〜3章で、タイトルとなった「自己への配慮」という概念を論じたところかもしれない。 フーコーによれば、この概念が、この時期のローマのさまざまな哲学・思想などの共通部分としてあるとのこと。 とくにストア派の哲学者の分析、とくにマルクス・アウレリウスへの共感が伝わってくる。 いわゆる、ストイックという言葉の語源となったストア派であるが、禁欲的ではない。しっかり、自分の魂を大切にしようとしているだけ(?)かな。 ちなみに、いわゆるプラトニックというのも原典に戻れば、同性愛肯定論ですからね〜。ただ、プラトンの肯定のしかたが、精神性を重視したものですけどね。(精神性を過度に重視した詭弁じゃないか?というのが、ローマ時代の哲学者の反応であったというのが、この本の主張なのだが)
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『快楽の活用』の続編として紀元一~二世紀のヘレニズム時代、キリスト教文化が浸透する以前の西洋世界における生きる流儀としての性道徳。外的規制ではなく自己から発し自己に還る精神と身体の自由。きわめて個人的でありながら、きわめて社会的という弁証法として、これを進歩と捉えることは、また危険の反復に過ぎないだろうか?
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