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小林秀雄とその時代 の商品レビュー

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2013/11/03

小林秀雄における「批評」の意味を探る論考。 著者はまず、小林の初期の小説である「蛸の自殺」や「一ツの脳髄」を検討し、そこに「辞意識」の絶対化とそれを「見る」批評的なまなざしを発見する。 さらに、小林の批評眼はボードレールやヴァレリー、ランボーといった詩人たちとの対話を通じて、...

小林秀雄における「批評」の意味を探る論考。 著者はまず、小林の初期の小説である「蛸の自殺」や「一ツの脳髄」を検討し、そこに「辞意識」の絶対化とそれを「見る」批評的なまなざしを発見する。 さらに、小林の批評眼はボードレールやヴァレリー、ランボーといった詩人たちとの対話を通じて、深められてゆくことになる。小林は、ボードレールの「自意識」を、ヴァレリーの「球体」に結びつける。ヴァレリーは、観察する人びとは決して壊れることのない球の中に捕らわれていると述べた。小林は、こうしたボードレールおよびヴァレリーの言葉を引用しつつ、「およそ思考の〈向かう道〉はすべてわれわれの内にある」と述べる。 小林のこうした「球体」内における意識の無限展開を打ち砕いたのが、ランボー体験だった。小林の自意識はランボーによって打ち砕かれることで、想像力の虚無という現実に向き合わされることになる。そしてここに、小林と中原中也の分岐点があると著者は見る。中也は、ランボー体験によって打ち砕かれた「魂」の現場から「歌う」以外にはないと自覚した。一方小林は、意識の球体を破壊される体験を、詩の断念に結びつけ、「見る」ことへと向かっていった。 著者はこうした理解を携えて、小林の「私小説論」や、正宗白鳥との「思想と実生活」論争、『ドストエフスキイとの対話』を読み解いてゆく。虚無から批評へと踏み出した小林は、社会主義リアリズムも、教養主義の末尾に連なりながら懐疑へと落ち込んでいった芥川龍之介の観念性にも、不満を覚えた。そして彼は、「自己解体」をスプリング・ボードとすることで、善悪を越え、社会と倫理に抵触する度合いに応じて深化する意識の暗部に、存在論的な水準で迫ったドストエフスキーの文学を評価する。 だが小林は、こうした自己解体の中から生まれる「批評」の末に、いわば「自然」としての「歴史」にたどり着くことになる。「無常といふ事」から『本居宣長』に至る小林の晩年の思索のうちに、著者はこうした「転回」を見て取っている。

Posted byブクログ