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続 悪霊列伝 新潮文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 新潮社 |
発売年月日 | 1983/09/25 |
JAN | 9784101292045 |
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続 悪霊列伝
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源頼朝の死(死因)について史料をもとに考察。といっても小説家の永井氏なので氏の旺盛な創造力が働いている。頼朝の死をめぐっては、落馬、病気、怨霊説などがあるが、いろいろ史料を読んだ上での氏の考えは、落馬から2週間後であり、内科的な発病ではないかとする。 年齢も53歳で、高血圧年齢...
源頼朝の死(死因)について史料をもとに考察。といっても小説家の永井氏なので氏の旺盛な創造力が働いている。頼朝の死をめぐっては、落馬、病気、怨霊説などがあるが、いろいろ史料を読んだ上での氏の考えは、落馬から2週間後であり、内科的な発病ではないかとする。 年齢も53歳で、高血圧年齢でもあり、旧暦の12月は1年中で最も寒い時期、その日1日、橋の落成式からの帰途寒風にさらされたあと、発作を起こしても不自然ではないとする。 源頼朝 建久10年(1199)1月13日死亡 「猪隈関白記」関白・近衛家実(1179―1242)著、建久8 (1197) ~建保5 (1217) 年の記事が伝存。『飲水ノ重病ニ依り』 飲水病とは糖尿病のこと。 「明月記」 『所労、頓病』 「吾妻鏡」 頼朝の死後13年目の建暦2年(1212)の記述。だが、1196年から1199年1月まで欠落。1199年3月2日には四十九日の法要の記事あり。紛失理由については、自然紛失、後に徳川家康がこの部分をかくした(家康は吾妻鏡を武家政治のお手本にしていた) 「保暦間記」1156年~1339年までの歴史物語。南北朝時代に成立。作者は不明。南北朝時代の足利方の武士と推定。『怨霊説』 1198年、相模川に家臣の稲毛重成(妻は政子の妹)が橋をかけた。それは3年前病死した妻の追善供養のためだった。その落成供養に頼朝も参列したが、あたりに怨霊がたちこめ、頼朝は馬上で不安定になった(落馬はしなかった)。が、鎌倉に帰り着くと病みついてしまいまもなく亡くなった。 巷間の説 色好みだった頼朝に怒り政子が嫉妬のあまり殺させた。しかし永井氏は、14歳まで京で育った頼朝にとって、妻問婚で気に入れば複数の女性の家に通う、というのはあたりまえ。しかし東国では妻は1人が普通。とりわけ北条氏のような中小豪族では複数の妻がいた形跡がないので、都ではあたりまえの習慣を政子は理解できなかった。東西の異なる文化で育った結婚だったのだとする。政子は亀の前の隠れ家を打ち壊したが、先妻が後妻や愛人の家になぐりこみをかける風習は「後妻打ち(うわなりうち)」といい、平安朝時代からよくあった、ということだ。 政子が暗殺したとする説は拡大すれば北条氏が頼朝を暗殺した説となる。北条氏は権力はあっても権威は無く、頼朝を殺すことは権威の源が無くなることなので、この説には否定する。 戯曲「頼朝の死」真山青果作 1932年4月歌舞伎座初演 家臣が恋人に横恋慕する密夫を討ったところ、これが頼朝だった、というもの。永井氏は「保暦間記」の怨霊説を批判しているところがおもしろい、という。 実朝に関して、永井氏はきわめて合理的な考えの持ち主だとする。「吾妻鏡」1212年に、件の橋の修理を三浦義村が建議したが、頼朝が死んだ因縁の橋で縁起がよくないから、再建はしないほうがよいとなり実朝に報告したが、実朝は父頼朝は人生の目的を遂げたあとの死であり、橋のために死んだのではない。橋自体は交通の要衝にあり便利なので、修理したほうがよい、と出ているという。 頼朝が死んだ当時は怨霊説は無い。「保暦間記」など後世になり政治批判的な願望をもった作者が怨霊説を唱えた。 他に、平将門、崇徳上皇、楠木正成、徳川家斉も考察。 1978.7.10初版 図書館
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