「私らしさ」の民族誌 の商品レビュー
文化人類学の研究書は、他の研究ジャンルに比べると、だいたいにおいて読むのが楽しい。それは、他文化について知りたいという知的欲求を満たしてくれるだけでなく、生きている個人ひとりひとりへの関心が中心にあるからだろう。 著者は「問題ではなく人にしか関心がない」と言い切る。そのスタイルも...
文化人類学の研究書は、他の研究ジャンルに比べると、だいたいにおいて読むのが楽しい。それは、他文化について知りたいという知的欲求を満たしてくれるだけでなく、生きている個人ひとりひとりへの関心が中心にあるからだろう。 著者は「問題ではなく人にしか関心がない」と言い切る。そのスタイルも研究書としては非常にユニーク。なにしろ研究対象は、エジプトのアメリカンスクールで教員をしていた著者の同僚3人だけなのだ。そんなんで研究になるのだろうか、といぶかりながら読み始めた。 格差が拡大しつつある現代カイロで、中産階級の子女が通うアメリカンスクールは女性が働く場としても申し分ないとみられているのに(でも教員たち自身が「学校は子どもにとって危険な場所」と考えていたりするの面白い)、実はめっちゃ給料が安くて社会的成功の実現の場にはなかなかなりえない。そんな職場でそれぞれの思惑をもって働く3人の女性たちに助けられたり振り回されたりした経験をふりかえりつつ、著者は、多くの矛盾をはらんでいるように見える彼女たちの「私」語りに、時間を経て耳を傾けなおす。ここで著者が試みているアプローチとは、彼女たちの行動を「理解」しようとして、学術的に論じられてきたその社会の解釈枠組みに依拠しようするのではなく、矛盾をはらみつつ生き抜くための「私」を語り創るというひとりひとりのプロジェクトそのものに敬意をはらい尊重するという、きわめてシンプルだが人間として基本的なことだ。もともと誰かを「ムスリム女性」だとか「エジプト女性」という大雑把な枠組みで理解することはできないのだし。 文化人類学研究という枠組みの中で、このアプローチがどう受け止められるのかは、門外漢のわたしにはよくわからない。それでも、そのときには理解できずにイライラさせられたり対立してしまう他者のあり方について、その人自身が追求する私というプロジェクトを尊重しながら、また異なるやり方で私というプロジェクトを追求している自分との関係として考える、ということには、なんだか希望が感じられるのだ。
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