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少女たちの戦争 の商品レビュー

4.2

16件のお客様レビュー

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2023/10/29

幼年期から青年期に終戦を迎えた女性作家によるアンソロジー。 銃後の女性たちの社会的役割がとても大きく、あの時代において彼女たちは被害者でもあると同時に加害者でもあった。多くの少女たちが軍国少女として、軍需工場で労働をさせられていた。しかも作っているのは兵士を死なせるためだけの人...

幼年期から青年期に終戦を迎えた女性作家によるアンソロジー。 銃後の女性たちの社会的役割がとても大きく、あの時代において彼女たちは被害者でもあると同時に加害者でもあった。多くの少女たちが軍国少女として、軍需工場で労働をさせられていた。しかも作っているのは兵士を死なせるためだけの人間魚雷や特攻の飛行機の一部。彼女たちは戦争で学ぶ機会を奪われた上に、知らず知らずのうちに日本軍の愚かな作戦に加担していた。戦争は銃後において女性の社会進出を後押ししていたという側面もあるけれど、その進出は戦争責任に加担することを意味する。わたしは今井邦子という歌人がすきだけど、戦後に彼女は戦意高揚の歌を作っていたことを後悔したことがあったのだろうかと気になった。戦時下での戦争責任に誰しも無関係ではいられない。それはいまでもそうなのかもしれない。

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2023/04/17

ちょっと思ったのと違った、、、 私からみたら年配の方だなあと思う方々が書いたものなんだけど、その方々にとってすら終戦間近のことしか経験してなくて、どんどん経験者はいなくなっているんだな。 その分そういう悲しくて酷い経験しなくて良いことが長い間起きていないってことは平和って証なんだ...

ちょっと思ったのと違った、、、 私からみたら年配の方だなあと思う方々が書いたものなんだけど、その方々にとってすら終戦間近のことしか経験してなくて、どんどん経験者はいなくなっているんだな。 その分そういう悲しくて酷い経験しなくて良いことが長い間起きていないってことは平和って証なんだろうけど。 怒らなくて良いことは一生おきなくていいですよ、、、

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2022/09/18

最年長 瀬戸内寂聴さん 最年少 佐野洋子さん 向田邦子さん、黒柳徹子さんなど戦時中少女であった27人の著名な少女たちのエッセイ。 軍国主義教育を受けて育った彼女達は、ロシアの少女達の環境に近いのかもしれないと思った。

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2022/08/12

太平洋戦争開戦時に20歳未満(3歳〜19歳)だった作家・女優ら27人の“すずさん”。「この世界の片隅に」のエッセイ版といった趣の本です。こうの史代さんのカバー・扉イラストも良い。今は亡き瀬戸内寂聴さん、今なお健在の黒柳徹子さんらが綴った少女目線による戦時下の日常が胸に迫ります。ど...

太平洋戦争開戦時に20歳未満(3歳〜19歳)だった作家・女優ら27人の“すずさん”。「この世界の片隅に」のエッセイ版といった趣の本です。こうの史代さんのカバー・扉イラストも良い。今は亡き瀬戸内寂聴さん、今なお健在の黒柳徹子さんらが綴った少女目線による戦時下の日常が胸に迫ります。どこまで理解できるか分かりませんが、戦争ものとしての敷居は低いので、今の子たちにこそ読んでもらいたいですね。

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2022/07/18

1941年の太平洋戦争開戦時に20歳未満だった女性によるエッセイ・アンソロジー。全27名のうち最年長は瀬戸内寂聴さん(1922生)の19歳、最年少は佐野洋子さん(1938生)の3歳。1931年9月の満州事変に始まり、37年には日中戦争、45年8月に終戦を迎えるまで15年間戦争が続...

1941年の太平洋戦争開戦時に20歳未満だった女性によるエッセイ・アンソロジー。全27名のうち最年長は瀬戸内寂聴さん(1922生)の19歳、最年少は佐野洋子さん(1938生)の3歳。1931年9月の満州事変に始まり、37年には日中戦争、45年8月に終戦を迎えるまで15年間戦争が続いており、少女たちが物心つく頃には日本は戦時の最中にありました。幼少期・青春期を過ごした少女たちがその中で見つめた、従来の戦争の記録には残らないような戦時下での日常風景をまとめた一冊です。

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2022/07/07

有吉佐和子、大庭みな子などの女流作家により描かれた太平洋戦争のさなかの少女たちの非日常的風景。 その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって……。け...

有吉佐和子、大庭みな子などの女流作家により描かれた太平洋戦争のさなかの少女たちの非日常的風景。 その頃「ああ、私はいま、はたちなのね」と、しみじみ自分の年齢を意識したことがある。眼が黒々と光を放ち、青葉の照りかえしのせいか鏡の中の顔が、わりあいきれいに見えたことがあって……。けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず、みんな生きるか死するかの土壇場で、自分のことにせい一杯なのだった。十年も経てから「わたしが一番きれいだったとき」という詩を書いたのも、その時の残念さが残 ったのかもしれない。(はたちが敗戦 茨木のり子) おかずは、きれいに殻をむいた茹で卵一個であった。 他人のお弁当のことを書くなど、われながらはしたないと思う。けれども、未だにあの時の友達の、首をすくめた姿が忘れられないのである。 他の友達のお弁当など思い出しもしない。あの茹で卵一個は、彼女にとってはまさにものすごい贅沢であり、私も彼女のよろこびを素直に自分のよろこびとすることが出来た。そういう時代だった。 三十八年前の夏に、彼女は広島で被爆して亡くなったと聞く。 (一個 竹西寛子)

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2022/07/03

少女期に第二次世界大戦を体験した文筆家二七名の当時のことを著したエッセイを収録した作品集。 作家、詩人、歌人等、文章の達人による当時の様子は、何より文学的にも素晴らしい。 編集部も最後に記しているが、戦争そのものよりも戦争の背後での一般人の女性や子供たちの日常が描かれていて、興味...

少女期に第二次世界大戦を体験した文筆家二七名の当時のことを著したエッセイを収録した作品集。 作家、詩人、歌人等、文章の達人による当時の様子は、何より文学的にも素晴らしい。 編集部も最後に記しているが、戦争そのものよりも戦争の背後での一般人の女性や子供たちの日常が描かれていて、興味深い。非常事態の中でも日常生活は営まれ、市井の人々は「今までとは違う」とは思いながら、全てを受け入れていると感じられた。いや、受け入れざるを得なかったのだろう。非日常が日常になってしまう恐ろしさがわかる。 誰もが最後まで日本が勝つと思っていたわけではなく、心の中で負けるだろうと感じたり、実際家族の中ではそれを口にする人もいたということもよくわかった。 終戦記念日が近づくとマスコミで取り上げられる「戦争」以上に、身近に戦争を感じられ、多くの人に読んでほしい一冊だ。

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2022/06/18

例え戦時中でも、流されず確固たる自分を持っている少女達。だから彼女達は、自己を成長させ、その後の人生が輝くのだ。迎合せず感性の赴くままに生きる事は、何と素晴らしい事か!

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2022/06/03

女性著名人27人が戦時中の思いを綴った本。 サヨナラと言って別れることが出来る別れは倖せ。 人は生まれてくるのに十か月もかかったんだ、死ぬのにもそのくらい必要だ さようなら→「そうならねばならぬのなら」という意味 この3つが印象に残った。 名前も知らない人を、ひと目見て...

女性著名人27人が戦時中の思いを綴った本。 サヨナラと言って別れることが出来る別れは倖せ。 人は生まれてくるのに十か月もかかったんだ、死ぬのにもそのくらい必要だ さようなら→「そうならねばならぬのなら」という意味 この3つが印象に残った。 名前も知らない人を、ひと目見て恋したり 人間魚雷を作ってるとも知らずに作業したり スルメをもらうために、何も分からず兵隊さんも見送るのに万歳と言ったり そんな、子どもの頃の日常の出来事が書かれてた。

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2022/05/11

日米開戦時(昭和16年)二十歳未満だった女性によるエッセイを、著者の生年順にまとめた本。当時19歳だった瀬戸内寂聴さんを筆頭に、3歳だった佐野洋子さんまで、27人の名文が載っている。 書いた時期、目的とも、50年以上前から15年ほど前までそれぞれ。それぞれに、少女たちの戦争があ...

日米開戦時(昭和16年)二十歳未満だった女性によるエッセイを、著者の生年順にまとめた本。当時19歳だった瀬戸内寂聴さんを筆頭に、3歳だった佐野洋子さんまで、27人の名文が載っている。 書いた時期、目的とも、50年以上前から15年ほど前までそれぞれ。それぞれに、少女たちの戦争があり、日常があった。文は簡潔で素晴らしくとも、書いていることは、私たちとは変わらない「小さきもの」たちの見た世界。 瀬戸内寂聴さんは、太平洋戦争開始の報を受けても、女子大のクリスマスでは七面鳥を食べたし、鮮満旅行にも参加している。音楽学校に通っていた石井好子さんたちは鶯谷のおしるこ屋で目当ての美青年に「紫」と名前をつけていた。最後ののんびりとした時代だった。 茨木のり子さんの開戦時は女学校の三年生だった。「暗雲はいちどきに拡ったのではなく、徐々に徐々に、しかし確実に拡がっていって、気がついたときには息苦しいまでの気圧と暗さで覆いかぶさるようになっていった」石牟礼道子さんは敗戦の頃代用教員をしていた。その頃、年齢不詳の骨と皮だけの少女を拾った。復調したあと復員兵に出身という加古川へ送って貰ったけど、のちのことは一切わかっていない。「それでも、生あるものたちや、人間が懐かしいから、在るがままに視ているよりかしかたない」 敗戦の年、大庭みな子さんは広島の本川小学校の収容所で、被爆者の介護をしていた。朝に生きていた人が昼には亡くなる。白骨は方々に散らばっている。14歳の夏ことだった。小学生だった黒柳徹子さんは、スルメ欲しさに出征する兵隊さんの集まりを探しては、旗を持って「万歳」を叫んでいた。後に「私も戦争に加担したんじゃないか」と発言した。 本書を読んでいる時に、偶然、戦時少女だった方の聴き取りをした。それを末尾に、支障がない程度でこっそり紛らわせてみたい。 1945年6月22日、倉敷市水島三菱飛行工場を破壊する目的で水島空襲が起きた時に、Mさんは幼稚園年長組だった。工場の川を挟んで数十メートル先の農家の8人家族だった。ずっと空襲警報が鳴って怖いのでよく眠れていなかった。朝8時過ぎ、警報が鳴って防空壕に入る。とは言っても穴を掘ったものではなくて、目標になる家を避けて、田んぼの中に稲藁で屋根を作った小屋のようなモノ。そのすぐ2-3メートルほど先に爆弾は落ちた。砂を被った。後で直径10mほどの穴が開いていた。幸い家族は全員無事だった。空襲が終わって海軍さん10人ほどがやってきて、たくさんの牛が死んでいたので、腹を割って川で洗って、肉を持って帰った。あの赤色は鮮明覚えている。8月15日、近所のおじさんが「戦争が終わったよ」と言った。終わっても2日ぐらいは眠れなかった。3日ぐらいから眠れ出した。爆弾が落ちて戦争が終わった。

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