恥さらし の商品レビュー
自意識は、虚栄心や自尊心とは違う。 「どうして自分は、こうしか生きられないんだろう」という思いから目を背けることができず、それでも歩み続けることだ。 作者は九歳の少女を主人公としても、その思いを描きだす。 “無欲で、人から愛され、愛されることを卑屈に求めない妹。ーしかし、シモーナ...
自意識は、虚栄心や自尊心とは違う。 「どうして自分は、こうしか生きられないんだろう」という思いから目を背けることができず、それでも歩み続けることだ。 作者は九歳の少女を主人公としても、その思いを描きだす。 “無欲で、人から愛され、愛されることを卑屈に求めない妹。ーしかし、シモーナが妹のようになることは不可能に近く、彼女はどうしても自分であることをやめられなかった。”(「恥さらし」) 失業により家庭での存在が色褪せていく父親、先延ばしにされた夢と挫折のリストを娘に背負わせるせる母親。貧困、格差や家庭の不和がもたらす閉塞を生き延びてきたかつての少女や少年が語る様々な自意識を巡る物語が九篇収められている。 二人の少女の友情と残酷な結末を描くエピソードと、同じアパートに住む名も知らぬ女に不倫のための部屋を提供する若い女性のエピソードが、重なることなく交互に並べられて響きあう「よかったね、わたし」には、本書の全ての主人公に向けられたような言葉がある。 “彼女は恋をしたことがなく、孤独で、ひとりぼっちだと感じ、自分を囚われの身だと思い、いかなる場所にも属さず、あまり多くを達成できずに来た… そうかといって、その失敗が努力や犠牲を共わなかったとは誰にも言えないだろう。敗北も、孤立も、すべては自分のもの。それを認めたことはある種の勝利ではないか?”(「よかったね、わたし」) そして二十二歳にして、五年前の自分を振り返る女性の言葉も、ひそむ苦さと若さゆえの痛切な煌めきと共にぎゅっと胸を突く。 “十七歳のわたしは、自分のことを気にかけるべきだと心に決めた。永遠に旅立ち、結果は捨てていくのだ。自分は物事を忘れらると期待していた。主役としての自由、自分だけの人生。あの頃のわたしは、こっけいな程に世界を相手に胸を張り、世界を打ち負かして無傷でいられると信じていた”(「ナナおばさん」)
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静けさが心地よく、すごく好きなトーンの本だった。 どの話も家族が影響し合っている。失業して気力をなくしたり、苛立ったりする父親たちが印象的だった。親が出ていく、離婚する、義父/母など、不安定な親事情が当たり前と感じられるような物語たちだった。 「最後の休暇」のニコライ君のように伯母に面倒をみてもらったり、「よかったね、わたし」のラケルとカロリーナのように友達の家の家政婦として働いたりと、家族の範囲は広く、他人との境界線が薄い社会だと感じた。
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チリ=ロベルト・ボラーニョみたいに自分の中でイメージ出来上がっていて、今思うとあの人はかなり裕福で、生活水準も高く、やっぱり、リアルな屋台的というのですかな?我々が旅行に行った場合に見受けられる雰囲気は、こっちの方なんでは?カッツカッツな生活。なんだかね、新聞を読んでるみたいなん...
チリ=ロベルト・ボラーニョみたいに自分の中でイメージ出来上がっていて、今思うとあの人はかなり裕福で、生活水準も高く、やっぱり、リアルな屋台的というのですかな?我々が旅行に行った場合に見受けられる雰囲気は、こっちの方なんでは?カッツカッツな生活。なんだかね、新聞を読んでるみたいなんだよね。起こっている事柄の表現力は素晴らしい人かな。しかし、ストーリーを創造して紡いでいく能力的には、ボラーニョとはダンチであり、うー。やっぱチリらしくなくても読み続けられるのはボラーニョの方なんであるのだ。
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チリと言えばボラーニョやアジェンデを思い浮かべるし、ラテンアメリカと言えばついついマジックリアリズムと条件反射のように思ってしまうけれど、そうだよね、訳者あとがきにあるように「日本の書店に村上春樹以外の小説が無数にあるのと同じ」ように、チリにはボラーニョやドノソ以外の作家がたくさ...
チリと言えばボラーニョやアジェンデを思い浮かべるし、ラテンアメリカと言えばついついマジックリアリズムと条件反射のように思ってしまうけれど、そうだよね、訳者あとがきにあるように「日本の書店に村上春樹以外の小説が無数にあるのと同じ」ように、チリにはボラーニョやドノソ以外の作家がたくさんいるわけで。現代の時間の中で、マジックリアリズムじゃない暮らしもあるわけで。 『タルカワーノ』『ナナおばさん』『アメリカン・スピリッツ』が◎。まるで長編小説を読んだかのような『よかったね、わたし』。
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