地形と地理でわかる古代史の謎 カラー版 の商品レビュー
☆時系列or地名で整理されていないので見ずらい 一部EVERNOTE登録済み 昭和23年明石原人発見→昭和57年の調査で骨は完新世(1万年前~のもの・縄文時代) 聖岳人、三ケ日人もウソ 東京都北区 中里古墳 貝塚 7000年前は海 三内丸山遺跡 青森湾に注ぐ沖館川の右岸の台地 ...
☆時系列or地名で整理されていないので見ずらい 一部EVERNOTE登録済み 昭和23年明石原人発見→昭和57年の調査で骨は完新世(1万年前~のもの・縄文時代) 聖岳人、三ケ日人もウソ 東京都北区 中里古墳 貝塚 7000年前は海 三内丸山遺跡 青森湾に注ぐ沖館川の右岸の台地 陸奥湾の魚介類、木の実、列島各地から物品☆米はあったかないか記載なし 九州北部 最古の稲作遺跡 稲作伝播ルート DNA解析 弥生時代前期には青森に到達 吉野ケ里遺跡 弥生後期 40ヘクタール 最古級の鉄器製造工房 瀬戸内海東部→未解明 出雲市 荒神谷遺跡 1984年銅剣、銅鐸が300本以上 3キロ離れた加茂岩倉遺跡からも出土 ×印の刻印が共通 福岡県志賀島での金印 奴の国の王 紀元前後の北九州のクニ 奴国、伊都国、末盧国 239年卑弥呼、魏に使者を派遣、銅鏡100枚貰う 240年帯方郡からも使者 当時の魏、呉、蜀の三国時代(魏の書物では当時の日本の位置をもっと南と認識、呉の真東と認識→呉との抗争を有利にするため、日本との関係を悪化させない) 魏の書物に日本=南方系の記述、邪馬台国の位置の南方へのズレの理由 三野輪山に纏向遺跡 3C半ば 記紀では10代崇神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇 8C後半 北海道式古墳 江別古墳群 茂漁(モイギリ)古墳群 手刀、和同開珎出土 土器の正面に木べらで模様→擦痕文文化(サッコンモン)擦文土器 ヤマト政権 奈良盆地(纏向遺跡)→河内に進出(百舌鳥古墳群、古市古墳群) 海岸に近い丘陵地にある 瀬戸内海から河内に上陸する人は目にする 海から見えやすい位置、大きさを実感させるためのレイアウト配置 10C後半 延喜式で3天皇の陵墓に指定 大きい順に割り振った 仁徳天皇(427年丁卯テイボウの年に崩御→遺跡の年代合わず) 15代応神天皇、16代仁徳天皇、17代履中天皇 宋書倭国伝の5王の記述 4C初 中国、北方騎馬民族、五胡十六国 439年北魏の統一 南部は漢民族の宋(420~479) 507年継体天皇 5代遡って越前から 日本を代表する古刹(コサツ:古くて現存している寺)唐招提寺 鑑真が来日する前は、私的に僧になる私度僧(シドソウ)・社会秩序が乱れる 日本人留学僧の普照、栄叡(ヨウエイ) 2人は揚州の大明寺(海側の都市)で鑑真に会う→苦労の末に鑑真は来日 遣唐使船 外交使節であり長安で元日朝賀に出席(逆算して9月に出航・☆台風シーズン?で危険) 宮城県多賀城市 奈良時代には多賀城 東北の奥州藤原氏 11C初めから繁栄→中央貴族への贈り物 100年繁栄→1189年源頼朝により滅亡
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地理がわからないとなぜその事件がそこで起こったのか?、なぜそんなことになったのかなんていう歴史の背景がわからないのだということがわかった気がする。 天皇が変わるたびに遷都を繰り返した時代があったのだが、その位置関係が分かるとその意味がわかる。
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今までとは違った正月休み、政府や知事より「ステイホーム」の指示が出ていましたので、令和三年の正月休みは読書をして過ごしました。 理系の道に進んでしまいましたが、昔から地理と歴史が好きでしたので、今でもこの本のタイトルを見かけれると読まずにはいられません。特に最近では研究が進んで...
今までとは違った正月休み、政府や知事より「ステイホーム」の指示が出ていましたので、令和三年の正月休みは読書をして過ごしました。 理系の道に進んでしまいましたが、昔から地理と歴史が好きでしたので、今でもこの本のタイトルを見かけれると読まずにはいられません。特に最近では研究が進んでいて、私が40年以上も前に学習した内容は、見直されたり、新たは発見が多いと理解しています。 この本も私の好奇心を満たしてくれた素晴らしい本でした、時間ができる時が来たら、この本で説明されていた場所に実際に足を運んで自分の目で見てみたいな、と思いました。 以下は気になったポイントです。 ・国生みの順番は、淡路島、本州(大日本豊秋津洲)、四国、九州、隠岐、佐渡島、北陸、大島(広島県辺り)、児島半島(岡山県辺り)である、淡路島に伝わる島生み伝承を、王権の国土生成神話に取り入れる構成を編み出した(p55) ・諏訪大社の上社と下社は、諏訪湖を挟んで南と北に10キロも離れている、上社は御頭祭や御射山祭といった狩猟民族特有の祭事が多く、下社は、筒粥神事という農耕民族ゆかりの祭事が多い(p63) ・飛鳥時代の「宮都」は天皇毎に移動している、基本的に夫婦別居で、子は妻の実家で養育されていた当時においては、皇子は父大王とは別の所で育つので、皇子居所がそのまま次の大王の居所、宮とされていったという、当時の家族形態からの指摘がある(p126)平安京までに、17回都が移っている(p127) ・三関とは古代畿内しゅうへんに置かれた三つの関所の総称で、美濃国の不破関、伊勢国の鈴鹿関、越前国の愛発関である、平安時代以降は、山城・近江国境の逢坂の関が加わる、それぞれ、東山道・東海道・北陸道の要所である(p130)奈良時代の末期、延暦8年(789)七月、制度としての三関は廃止される(p133) ・宇治橋、山崎橋と並び、日本三古橋の一つに数えられるのが、勢多の唐橋である。東海道、中山道方面から京都へ向かうために避けては通れない唯一の交通路であった(p136) ・五畿七道とは、当時の都(難波京、平城京、平安京)周辺を畿内五カ国とし、それ以外の地域を七道として分類したことによる。七道の中で最も重視されたのは、山陽道であり、九州と都を結ぶ唯一の大路であるとともに、外国からの客人が通る道であった。都に近い方が上(かみ)であった、同様に、都に使い方が前である(p147) ・形式として死刑の判決文が上奏され、天皇は囚人に対して、死一等を免じて流刑を申し渡すのが普通になった。天皇の寛大さを示し、死刑執行という凶事に手を染めないようになっていった。罪の重さによって都からの距離が「二千里」「二千五百里」「三千里」(当時の1里は約560メートル)と決められた。遠流の地は、伊豆・安房・常陸・隠岐・土佐であった(p155) ・奈良東大寺に次ぐ規模を誇っていたのが武蔵国分寺である、奈良時代において蝦夷(東北)と対立関係にあった朝廷は、武蔵国分寺を東国における重要拠点と定めた。武蔵国は関東にあたる律令国の中では、唯一、東山道に属しており、東山道の枝道として「東山道武蔵路」が設けられた(p157) ・平安京の場所が選ばれた一つとして、平安京の鎮守である松尾大社(京都)が秦氏の氏神であったこともあ李、葛野ぐんが有力渡来氏族の秦氏の根拠地であった(p172) ・奥州藤原氏の非凡な点は、常に西の朝廷にも目を向けて、中央貴族とのパイプを維持したこと。国守に反抗して前九年の役で滅ぼされた安倍氏と違って、奥州藤原氏の歴代は朝廷や摂関家への貢納物を怠らず、砂金をはじめ駿馬や鷲の羽、アザラシの皮、麻布、絹、綿など北方の物産を送り続けた、これが100年にわたる栄華を謳歌した理由である(p187( ・遣唐使の航海が困難であった理由の一つとして、外交使節である遣唐使は長安で行われる元日朝賀に参加するのが原則、陸路の旅程を含めると最終的な出発は現在の9月にならざるを得ず、台風の季節に海を渡ることになった(p191) ・刀は反りのない朝廷軍の直刀に対して、蝦夷が使用した反りのある蕨手刀は、馬上から振り下ろしたり、すれ違いざまに斬り合ったりするのに便利であった。最も中世武士の戦闘は馬上での弓矢の使用が中心で、刀は歩兵戦での使用が原則であった(p201) ・1179年の平氏の知行国は日本をほぼ治めている、軍事力もさることながら、寺院の寄進や内裏の再建など、歴代上皇や朝廷に対する財政奉仕があった。(p208) ・福原(神戸)への遷都の動機は、安徳天皇を頂点とする平氏政権を、以仁王のような反平氏勢力から守ることにあった。近江の園城寺、南都の興福寺、比叡山の延暦寺も加担していた(p212) 2021年1月11日作成
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