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日本習合論 の商品レビュー

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23件のお客様レビュー

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2020/10/09

『日本習合論』  これまでの日本文化を語る上で、明治政府の神仏分離令以前では、仏教と神道がまさしく習合していたという事例を挙げ、日本文化の基底にある習合というキーワードについて論じられている。習合論の範疇は広く、現代的には大瀧詠一がロックに日本語の歌詞をのせることで一つの音楽性...

『日本習合論』  これまでの日本文化を語る上で、明治政府の神仏分離令以前では、仏教と神道がまさしく習合していたという事例を挙げ、日本文化の基底にある習合というキーワードについて論じられている。習合論の範疇は広く、現代的には大瀧詠一がロックに日本語の歌詞をのせることで一つの音楽性を確立することにまで含まれる。  習合のキーワードは同化でもなく、差別でもないことである。かつて内田老師はフランスのユダヤ人政策について『私家版・ユダヤ文化論』で述べていたが、フランスのユダヤ人政策は同化であった。日本における習合とは、理解と共感を絶した関係性の「他者」と共生していくことである。理解と共感に基礎づけられずに、人間との関係性を結ぶことができるのかというポイントはエマニュエル・レヴィナスの主要テーマでもあるが、レヴィナスに師事した内田老師らしい日本文化の捉え方である。  習合について美しい文章で説明があったので、引用する。  “氷炭相容れざる二原理が、その違和にもかかわらず無理やり相容れてしまったときに、淡水と塩水が混ざった「汽水域」のような文化的領域が生成する。そこは植物相も動物相も足油で魚が良く獲れる。たどしたら、原理が純正であることよりも、とりあえずは「魚がたくさん獲れて、飢餓に苦しまない」ということの方が人間にとっては優先するんじゃないか”  この双方相容れないものが同居するという矛盾によって、文化的な豊饒は担保される。そして、この現象が一人の人間の中で起こったとき、その葛藤の中で人間は成長するのである。  内田老師は、現代の人々の中で、このような葛藤する能力の欠如を憂う。メディアや政治的言説がクリアーカットで明快な言葉を使うことにより、人々は矛盾や複雑さに耐えうる胆力を失ったのかもしれない。ここからは私見であるが、人々は決して精神が弱くなったわけではないと考える。おそらく昔の人にとっても矛盾や複雑さを耐えることは苦痛であったであろう。しかしながら、昔の人にあり、今の人にないので、自分自身が地理的に、歴史的に、どの部分にいるのかというある種の世界観の大きさではないかと思う。歴史を知らなければ、現代的に受け入れられない意見を述べる事や、考えることを耐えられず、広い世界を知らなければ、自分自身の集団の異常性には気づかずに、その集団の中で潰れてしまう。 歴史的にも地理的にも人々の認識が狭まっていると考える。この認識の狭まりは、一種の防衛本能であるとも感じる。情報の洪水の中で、人々は無意識的に、防衛本能として一定以上の情報をシャットダウンする。その結果として、情報に触れる機会と反比例して、情報の吸収力が低下する。そんな中で、その様な葛藤を自分自身の中で内包することや、社会の中で内包する事(=習合)の重要性は非常に大きいと考える。 自分の意見が少数派でも、少数派が存在することが組織のリスクヘッジになるというくらいの開き直りと客観的な視座があれば、胸を張って生きる事ができる。  フランスでは、ナチスに占領された傀儡政権・ヴィシー政府の時代に、少数派ながらもイギリスで亡命政府を立ち上げたド・ゴールがフランスの戦前と戦後を接ぎ木する歴史の主役となった。そして、彼の存在こそがフランスの戦前と戦後をつなぐ、人々のよりどころになったのである。日本の近現代史において、戦前と戦後をつなぐ人々はいない。八紘一宇のもとにすべてが誰かに追い込まれ、騙されて戦争の道をたどった。ふたを開けてみると全員が戦争の被害者であり、加害者であったのである。この責任の所在の欠如は、昨今の戦前回帰の傾向に尾を引いていると認識する。  すべてを習合的に内包する社会のレジリエンスは強いが、独裁的な社会は一度なってしまうと不可逆的に破壊される。誰がこんな日本にしたんだと口々に言い、誰も自分の責任を自覚しない社会に未来はない。

Posted byブクログ

2020/09/21

わたしの様ないろいろなことをごった煮で考えている周縁的な人間にとっては勇気を与えてくれる一冊。理解・共感・原点回帰に囚われている人には一読をすすめる。

Posted byブクログ

2020/09/19

 内田先生、ミシマ社からの久々の書き下ろしは、〈習合〉をキーワードに、日本社会の様々な諸相を論じたものである。  加藤周一が唱えた、日本文化は雑種文化であるというテーゼの代表的な顕現として「神仏習合」があるのではないかと捉え、それではなぜ千年近く続いたにもかかわらず、維新政府の...

 内田先生、ミシマ社からの久々の書き下ろしは、〈習合〉をキーワードに、日本社会の様々な諸相を論じたものである。  加藤周一が唱えた、日本文化は雑種文化であるというテーゼの代表的な顕現として「神仏習合」があるのではないかと捉え、それではなぜ千年近く続いたにもかかわらず、維新政府の政策によりほとんど抵抗なく神仏分離が進んだのか、との問いを発する。  それを中心的な問いとして、共同体、農業、宗教、仕事と働き方等々について、興味深い話が続く。社会的共通資本の公共性、ショートレンジで利潤最大化を目指すグローバル資本主義の限界、働くことの意義、これは自分の使命だと思って行動する人間がどのくらいいるかが、その社会の強靭性、健全性を示していること等々について、いつもの内田節で、具体事例を紹介しながら、目から鱗の面白い話題が続く。  純化主義、原理主義は純粋で、浄化、原点帰還は巨大なエネルギーを発出するが、それで本当に世の中はよくなるのだろうか、折り合いをつけて習合することで日本は創造性を発揮してきたのではないのか。  日本の閉塞状況に対する著者の考察が詰まっており、いろいろなことを考えさせられる、良き参考書である。  

Posted byブクログ