忠臣蔵の起源 の商品レビュー
・忠臣蔵と言へば歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」である。何しろ歌舞伎の独参湯、これをかければ受ける。そんなにありがたい芝居であるが、この物語は史実とはかなり違ふといふ。そもそもその成立過程から怪しい。そんな立場から書かれたのが柿崎輝彦「忠臣蔵の起源」(幻冬舎ルネッサンス新書)である。柿...
・忠臣蔵と言へば歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」である。何しろ歌舞伎の独参湯、これをかければ受ける。そんなにありがたい芝居であるが、この物語は史実とはかなり違ふといふ。そもそもその成立過程から怪しい。そんな立場から書かれたのが柿崎輝彦「忠臣蔵の起源」(幻冬舎ルネッサンス新書)である。柿崎氏は忠臣蔵の専門家と言ふべきであらうか。文学者でも史学者でもなささうで、ひたすらこの事件の文献、史料等を渉猟してきた人であるらしい。私などは歌舞伎や文楽の忠臣蔵を観てきた人間であるから、この人のやうな文献史料を通した歴史的な事実関係といふ見方を知らない。しかもそこに近松門左衛門が絡んでくるとなれば私の想像を絶する世界である。帯には「通説を覆す画期的な論考。」とある。忠臣蔵に近松が出てくるのである。確かに画期的であらう。 ・柿崎氏の考への基本は、「忠臣蔵の語源ともなった『仮名手本忠臣蔵』は近松門左衛門の構想によって始まった」(229頁)といふことである。決して近松が書いたのではない。最終的に書いたのは並木千柳、竹田出雲、三好松洛の3人であつた。ただし近松が決定的な役割を果たしてゐた、といふのである。この合作を認めることは「立案の経緯や情報源など多くの疑問が生じる。」(同前)らしく、逆に「近松門左衛門による忠臣蔵構想が早い段階から想起されていたと仮定すると(中略)近松の忠臣蔵構想を実現させるべく自然且つ必然性をもった様々な出来事が連続する姿が浮かび上がる。」(同前)といふのである。これでも分かるやうに、氏の考への基本には「仮定」がある。既定の事実としてある事どもを前提とするのではなく、様々な史料渉猟によつて得られた知識をもとにしての仮定を前提とするのである。なぜか。「学術社会においては絶対的な確証がない限り、また裏付けの伴わない推論による持説は成立しないことからか、それ以上先へは踏み込めていないのが現状である。この状況が続く限りそこからは何も生まれない。」(5頁)そして更に、赤穂事件、忠臣蔵研究の「史実派と文芸派との間にはこれまでほとんど交流する機会さえなかった。」(10頁)そんな「現状に一石を投じたかった」(235頁)からだといふのである。忠臣蔵研究の現状に不満があるから新説を出すといふことでもあらう。これは私にはできない、非常に勇気ある行動である。やはり私は証拠が必要だと思ふ。丸谷才一「忠臣蔵とは何か」の諏訪春雄への反論「日本文学研究にはびこるいわゆる実証主義的方法の戯画として恰好のものだろう」(6頁より再引用)といふのが載るが、ないものを出せと言つても無理である。ないものは出せない。実証主義では、ないものでも書いたからには出さねばならない。なければ書くなである。それでは少しも進まない。それに一石を投じて進めようとするのである。氏の仮定は、近松から初代竹田出雲に忠臣蔵構想が伝へられ、そこから更に二代目出雲とスカウトした千柳とに伝へられて完成するといふもので、それゆゑに、赤穂事件から50年近くの歳月が経過してゐても近松の準作品と言へる。その近松に事件の情報を 提供したのが綿屋善右衛門であり、二人は京都在であつたから何らかの接触があり、そこから近松は材を得たはずだといふのである。ここには様々な仮定や推論 がある。実証ではない。私にはその当否を論ずることはできない。仮定の積み重ねがいささか眉唾ではないかと思はないでもない。ただ、かういふ形で忠臣蔵研 究に一石を投じたのは評価さるべきであらう。今後、この成果がどのやうに生かされるのか。完全な無視で終はらないことを祈るばかりである。
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