知ってるつもり 無知の科学 の商品レビュー
自分がいろいろと知っているというのは大間違い。ほとんど何も知らない。 チームに必要なのはエースではなく、それぞれの異なる能力を持った人がバランスよくいること。 因果関係は深く入り込むと嫌われる。わかった気にさせるようなぐらいが一番良い。 まず大抵の人は説明嫌いであるという事実、意...
自分がいろいろと知っているというのは大間違い。ほとんど何も知らない。 チームに必要なのはエースではなく、それぞれの異なる能力を持った人がバランスよくいること。 因果関係は深く入り込むと嫌われる。わかった気にさせるようなぐらいが一番良い。 まず大抵の人は説明嫌いであるという事実、意思決定に必要な詳細な情報を理解する気も能力もないことが多いという事実を認める必要がある。
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人間は、無知なのに物知りだと勘違い(知識の錯覚)したり、非合理的な思考に左右されたりする愚かな生物であることを痛感させられる本だ。東浩紀著の『ゆるく考える』の「ソクラテスとポピュリズム」の中で、ソクラテスは「(人々の)噂による感情の暴走」が原因で死刑判決を受けたと書かれている。つ...
人間は、無知なのに物知りだと勘違い(知識の錯覚)したり、非合理的な思考に左右されたりする愚かな生物であることを痛感させられる本だ。東浩紀著の『ゆるく考える』の「ソクラテスとポピュリズム」の中で、ソクラテスは「(人々の)噂による感情の暴走」が原因で死刑判決を受けたと書かれている。つまり、合理的ではない判決でソクラテスは死に追いやられてしまったのだ。だから、人間は今も昔も全く進歩していないとも言える。何とも暗澹たる気持ちになるが、本書では知識の錯覚のメリットも挙げている。それがせめてもの救いである…
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人の知識は限られており、人は自分が思うほど、物事を知らない。しかし知っていると思っている。自分の無知さを謙虚に認識し、傾聴する姿勢を持つことの重要性を説いている。また、一人の知識は限られ、個々人においても大差はない、かつ、人は自分の専門外の分野については、人に任せようとする傾向に...
人の知識は限られており、人は自分が思うほど、物事を知らない。しかし知っていると思っている。自分の無知さを謙虚に認識し、傾聴する姿勢を持つことの重要性を説いている。また、一人の知識は限られ、個々人においても大差はない、かつ、人は自分の専門外の分野については、人に任せようとする傾向にある(わかる!私だ!でもそれは不得意分野の拒絶というより老化で覚えられないと思っていたが)。そんな、無知な我々はどう生きるのが賢いのだろう?それは「集団に協力する、貢献する者」である事。なるほど。個々人の知識は限られるのだから、得意分野を持ち寄る集団に自分を貢献する。知識は人間の脳にあるのではなくコミュニティにあるのだ。新しい考え方だ!これは、ビジネスでも取り入れられつつあって、「強みを生かす(弱みの克服ではなくて)」もこれに通じるものがある。今の職場、協力することは奨励されてなく、スタンドプレーが賞賛される。それに違和感と限界を感じていた。私の姿勢は正しいんじゃん!このままでいいんだ!って思えた。その姿勢を貫き通せるかは、難しい。 無知は問題も起こすが、それだけではない。人々が抱く錯覚(身近に言うと妄想?)は人々を無謀な物事に挑ませ、思いがけない成功をもたらすことがある。もちろん失敗に終わる事もあるのだが。 自身の無知に謙虚に、かつ、溢れる情報が正しいか?常に自分の判断を見識を持ってしていきたい。私の稚拙な知識私少しでも世の中を良くする事に使いたい。
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人間は自分が思っているより無知である、ということだ。私たちはみな多かれ少なかれ、「知識の錯覚」、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く。(p.16) 私たちが知識の錯覚のなかに生きているのは、自らの頭の内と外にある知識のあいだに明確な線引きができないためだ。それができないのは、そもそも明確な線など存在しないためである。だから自分が知らないことを知らない、ということが往往にしてある。(p.24) 私たちは共同してモノを考えるため、チームで活動することが多い。これはすなわち個人としてどのような貢献ができるかは、知能指数より他者と協力する能力によって決まる部分が大きいことを意味する。個人の知性は過大評価されている。これはまた、他者と一緒に考えているとき、学習効果は最大になることを意味する。教育のどの段階においても、最高の教授法のなかには生徒にチームとして学習させる手法が含まれている。教育分野の研究者にとっては目新しい話ではないが、教育現場でそれほど実践されていない。(p.27) 直感は個人的なものだ。それぞれの頭の中にある。一方熟慮には、個人として知っていることだけではなく、ぼんやりとしか知らないことや表面的にしか知らないこと、すなわち他の人々の頭の中にある事実も使われる。たとえばどの候補者に投票しようか考えるときには、尊敬している人のアドバイスに耳を傾けるかもしれない。そういう意味では、熟慮は知識のコミュニティの力を借りていると言える。(p.99) 学ぶべき主な教訓は、知性を脳の中でひたすら抽象的計算に従事する情報処理装置と見るべきではない、ということだ。脳と身体、そして外部環境は強調しながら記憶し、推論し、意思決定を下すのだ。知識は脳内だけでなく、このシステム全体に分散している。思考は脳内の舞台だけで起こるわけではない。私たちは賢く行動するために、脳、身体、そして身の回りの世界にある知識を使って思考する。言葉を換えれば、知性は脳の中にあるのではない。むしろ脳が知性の一部なのだ。知性は情報を処理するために、脳も使えば他のものも使う。(p.121) 人間は他者が何をしようとしているかを推論できるだけではない。他の機械や動物の認知システムにはない能力がある。他者と関心を共有することだ。人間同士が相互作用するときには、単に同じ事象を経験するだけではない。互いが同じ事象を経験していることを認識している。自分たちは関心を共有しているという認識によって、経験そのものが変わるだけではない。自らの行動や、他者とともに何を成し遂げられるかが変わる。(p.130) 知識の呪縛とは、私たちは自分の頭の中にあることは、他の人の頭の中にもあるはずだと考えがちなことを指す。一方、知識の錯覚は、他の人の頭の中にあることを、自分の頭の中にあると思い込むことを指す。いずれのケースも、私たちは誰が何を知っているかを理解できないことを示唆している。 人は集団意識の中で、他者や環境に蓄積された知識に依存しながら生きているので、個人の頭の中にある知識の大部分はきわめて表層的である。そんな表層的知識でも十分生きていけるのは、たいてい他の人は相手にそれ以上を期待しないからだ。彼らの知識も同じように表層的なのだ。それでも生きていけるのは、知識のさまざまな責任をコミュニティ全体に割り振るような認知的分業が存在するからである。(p.144) 優れたリーダーは、人々に自分は愚かだと感じさせずに、無知を自覚する手助けをする必要がある。容易なことではない。目の前の相手だけでなく、誰もが無知であることを示す、というのが一つのやり方だ。無知というのは純粋に自分がどれだけ知っているかという話である。一方、愚かさというのは他者との比較である。誰もが無知なのであれば、誰も愚かではない。(p.210) 学習とは単に新たな知識や能力を身につけることではない。そこには他者と協力する方法を学ぶこと、そして自分に提供できる知識、他者から埋めてもらわなければならない知識は何かを知ることも含まれている。(p.238) ある主張が信頼できそうか、知識を持っているのは誰か、その人物は真実を語る可能性が高いかを判断するすべを身につけさせるのも、教育の重要な機能の一つだ。このような判断を下す簡単な方法はないが、きちんと教育を受けた人は、教育を受けていない人より上手くやれるだろう。これは科学教育に限った話ではなく、法律、歴史、地理、文学、哲学など教育の対象となるあらゆる分野に当てはまる。(p.247)
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とても興味深く読んだ。さまざまな分野の研究成果に立脚しつつ、一般の読者にもわかりやすく書かれているところが良い。個人は(当人が思うよりずっと)無知だが、それにもかかわらず人間が高度な文明社会を築いているのはなぜか。それは、ごく少数のカシコイ人たちががんばってるからではなく、私たち...
とても興味深く読んだ。さまざまな分野の研究成果に立脚しつつ、一般の読者にもわかりやすく書かれているところが良い。個人は(当人が思うよりずっと)無知だが、それにもかかわらず人間が高度な文明社会を築いているのはなぜか。それは、ごく少数のカシコイ人たちががんばってるからではなく、私たちは「知識のコミュニティ」に生きているからだ、という冒頭の論から、なるほどねという説得力たっぷり。 前半は、そうした明快で新鮮な考察が次々述べられていく。 ・なぜ思考するか。行動のためである。 ・どう思考するか。人間は因果的推論を得意とし、その力で繁栄してきた。因果情報を交換する最も一般的な方法が「物語」である。 ・人間は、自らの身体、周囲の世界(もの)、他者を使って考える。テクノロジーも思考の延長である。 ・テクノロジーによる超絶知能の脅威が言われているが、人とは違い、テクノロジーは(まだ)志向性を共有しない。 などなど。 後半は、科学や政治についての理解や、「知能」のとらえ方に話が進み、教育のあり方について具体的な提言もされている。確かに、著者たちの言うとおり、知識が個人の脳に蓄えられるものではなく、コミュニティで共有されるものであるならば、旧来の教育方法は大転換の必要があるだろう。自分は旧人類なので、ここで述べられているような教育の姿はどうもピンとこないのだが、インターネットの爆発的な普及で大きく様変わりしていく世界で生きて行くには、そうした転換が必要なのかもしれない。 一番おもしろいと思ったのは、著者が終わりの方で書いているそのとおり、読後、ここに書かれているのは自明のことで、前からわかっていたような気になることだ。そんなはずはないのに。こんなふうにして人は、いや私は、いろいろな知見をまるで自力で考えたように思い込んでいるのだろう。
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なぜそこまで他人が堂々と自分の知識、知性について表面的に自慢、自称できるかを疑問に思っており タイトルに惹かれて購入。 やはり、人間は自分が無知であることを理解できていないことを再認識できる本。 無知であるが故にコミュニティの知を活かせるのが人間。 見たことがあるのと理解しているのではまるで違う、何を知らないかを知る。 適宜再読したい本。
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人は、自分が理解していないことを理解できないらしい。 こういうと、非常に愚かなように聞こえるが、実はこの特質が人類の進歩に非常に役立っている。私たちは、自分の頭の中にある知識と外部の知識、すなわち本やネットの知識から友人の頭の中の知識までも、本能的に区別せずに生きている。確かに...
人は、自分が理解していないことを理解できないらしい。 こういうと、非常に愚かなように聞こえるが、実はこの特質が人類の進歩に非常に役立っている。私たちは、自分の頭の中にある知識と外部の知識、すなわち本やネットの知識から友人の頭の中の知識までも、本能的に区別せずに生きている。確かに実践的には、自分の頭の中だろうが外だろうが、アクセス可能であれば十分である。 また、世の中はますます複雑になってきて、全てを理解することは不可能だし、理解できるものだけを使って生きていくこともできない。理解できないところは信頼して生きていくしかない。 しかしながら、自分が理解できていると錯覚していると問題になることがある。例えば、原発やロケットなど複雑な仕組みについて、理解できていないことを知らずに判断すると大変な事故につながる。政治家の選挙でも、政策の影響を理解しないで投票すると、予期しない結果になるかもしれない。 本書は、人が無知の錯覚に陥りやすいことを、人の社会性という観点から説明する。そして人の知能は個人の中にはなく、社会との関わり方にあるとして、教育や評価のあり方についても考えていく。 自分の知能について謙虚になれるとともに、生きていくうえで何が大切なのかを考える機会になった。
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「水洗トイレや自転車の仕組みを説明できると思いこむ、政治に対して極端な意見を持っている人ほど政策の中身を理解していない…」 確かに、いつも使っているものについて、自分はその仕組みもすべて分かっていると思っている。 でも「ジッパーの仕組みってどうなっているのか?説明してみろ」って言...
「水洗トイレや自転車の仕組みを説明できると思いこむ、政治に対して極端な意見を持っている人ほど政策の中身を理解していない…」 確かに、いつも使っているものについて、自分はその仕組みもすべて分かっていると思っている。 でも「ジッパーの仕組みってどうなっているのか?説明してみろ」って言われてもうまく説明できないだろう。 人間は個人の知力だけでなく集団の知力や過去の偉人達の知力を利用して進化してきた。ここが人間と動物のすごいところだ。それは言葉を使って他人に伝えるということで成しえてきたものなのだ。 文字のない時代は口述で、文字ができた後は書物によって人間は蓄えてきた知識を後世の人々に伝えいき、人間は進化していった。 現在は、自分が記憶していなくてもスマートフォンなどでですぐにありとあらゆることが検索でき、保存できる時代になった。 人間の進化はどこまで行くのだろうと考えさせられる一冊だった。
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「知ってるつもり 無知の科学」は、例えばトイレで水が流れる仕組みなど、普段接していても詳しく説明すると知らないことに気づきます。自分の知識だと思っているものが意外に他人やテクノロジーやコミュニティに頼っており、個人は自分が思う以上に無知であると指摘する本です。
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人は、実際よりも、自分の知識・理解レベルを課題に評価する傾向がある。 信念に関係ない事項であれば、自分が知っていると思っている事柄について、内容を説明させると、自分がわかっていないことに気がつくことが多い。 信念に関係する事項については、自分の無知を理解しようとしない。 知識や理...
人は、実際よりも、自分の知識・理解レベルを課題に評価する傾向がある。 信念に関係ない事項であれば、自分が知っていると思っている事柄について、内容を説明させると、自分がわかっていないことに気がつくことが多い。 信念に関係する事項については、自分の無知を理解しようとしない。 知識や理解は個人レベルではなく、コミュニティーで共有されることが多い。インターネットのために、その傾向は増している。そのため、個人向けの教育では、誤った知識や理解はなかなか改善しない。 殆どの場合、現実の事柄は、コミュニティーが誤った幻想を持っているからと言って、それに影響されるものではない。 しかし、経済は、社会の共同幻想によって立つものなので、コミュニティーがある共同幻想を持っていると,それに影響を受ける。 誤った行動幻想による壊滅的な被害を防ぐために、 ① 難しいことは、優しく簡潔に説明する。 ② 簡単な行動ルールを教える。 ③ (予めでなく)必要なタイミングで必要なことを教える。 ④ 自分の無知を自覚するよう勧める。
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