百年の散歩 の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
ベルリンのあちこちの通りで「あの人」を待つ。 けれど待ち人はなかなか来ない。 来ない「あの人」を待ちながら、のんびりムードでそぞろ歩きしながらの連作短編集。 目に止まった景色や周囲の人々の観察、街の歴史に思いを馳せながら。 百年前にトリップして空想に浸ったりして。 言葉遊びのような文章が楽しい。 日本語、ドイツ語、フランス語等多様な言語が踊り出す。 韻を踏んだような言葉遊びにニヤリとなる。 私はベルリンを訪れたことはないけれど、一緒に散歩した気分になれた。 百年前に建てられた建物等をゆったりと見ながら、百年前に思いを馳せながらの散歩、なんて贅沢なことか。
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苦戦しました。 何を言いたいのか伝えたいのかさっぱりわからず。 言葉遊びも中途半端だし、ドイツ語になるとそれこそわからない。 ドイツ語で読むと違うのでしょうか?
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ベルリンの10の通りや広場を「あの人」と出会うことを願って散歩する.思いや考えは時代や場所を超えて巡り行き,喫茶店に入ってまたぐるぐるする.このたゆたうとでもいうべき肉体の散歩と精神の高揚と鎮静,表現も独特で美しい.そしてベルリンはこの様な彷徨が似つかわしい.
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ベルリンの街を散歩していると、時代を現実を超えて、いろいろなことが去来していく。。。 鳥の名前は単語としては知っているのだ。AmselとかRotkehlchenとか。でもそれは詩に出てくるから知っているだけで、頭の赤い鳥とか、道端でミミズをつついている黒い鳥とかの姿と結びつかな...
ベルリンの街を散歩していると、時代を現実を超えて、いろいろなことが去来していく。。。 鳥の名前は単語としては知っているのだ。AmselとかRotkehlchenとか。でもそれは詩に出てくるから知っているだけで、頭の赤い鳥とか、道端でミミズをつついている黒い鳥とかの姿と結びつかない。単語は単語でぴらぴらと宙を舞っていて、鳥は鳥で木の枝にすわって知らん顔している。言葉は本当は世界とはなんの関係もないんだというしらじらとした妙に寂しい気持ち。
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ベルリンの実在する10の通りと広場を 過去へ未来へ妄想を広げながら 言葉遊びのように ころころ出てくる言葉を楽しみながら 時折そるどい視線を送りながら 歩く 妄想散歩 ベルリンには行きたくならない と思いながら読み進み 最後にはちょっと行ってみたくなる
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『わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた』―『カント通り』 一行読んで直ぐに思い出す。ああこれが多和田葉子であった、と。エクソフォニー。手掛かりは、音。 個人的に一番好きな作品は「容疑者の夜行列車」。推理小説のようなタイトルに隠された音と意味の多重露出。物語もま...
『わたしは、黒い奇異茶店で、喫茶店でその人を待っていた』―『カント通り』 一行読んで直ぐに思い出す。ああこれが多和田葉子であった、と。エクソフォニー。手掛かりは、音。 個人的に一番好きな作品は「容疑者の夜行列車」。推理小説のようなタイトルに隠された音と意味の多重露出。物語もまたシュレディンガーの猫のように夢と現実の二つの象限を同時に生きる登場人物を描く。他の作家には似ていない。多和田葉子だけの世界観。「百年の散歩」では、久し振りにその時に惹かれた多和田葉子の語りを聞く思いがする。ベルリンに閉じ込められ、主に日本語と独逸語との間で響きと意味が互換可能なものを(それを真実と呼ぶことは余りにも魅力的だが)探し出そうとする主人公。この一人称の語り手を多和田葉子自身と読み換えることは可能だけれど、もちろんそんな構図は単純過ぎる。待ち続けるあの人だって実体があるとは限らない。 『わたしは警戒する猫のように足の裏を柔らかくして店の中に入って行った。頭の天秤ばかりが激しく揺れる。靴の先で確かめると床はしっかりしているのだが、私自身の身体の中で、それまで重かった部分が軽くなり、軽かった部分が重くなっている』―『マヤコフスキーリング』 例えば語源というものを考える時、ある言語から別の言語へ一つの言葉が単純に伝わったかのように考えがちだけれども、そこに潜むのは、音から立ち上がるクオリアの共通性に裏打ちされたものなのかも知れないと考えついた時、未知の言葉が単純に輸入されたかのような説明にはもはや説得力はない。さみしいとsadに共通する子音や母音は偶然なのか、それとも人の脳にビルトインされた機能から引き出される必然なのか。bonfireと盆火が似たような心象を呼び起こすのは何故なのか。多和田葉子を読んでいるとそんなことばかり考えてしまう。それはとても興奮を覚える思考ではあるが、同時に試行錯誤ならぬ志向錯誤である可能性も秘めている。そこにシオンの議定書に通じる薄暗さも感じ取っておくことは大事なことだろう。 そう自らを戒めながらも、百年の散歩、に多重露出されたものを探り当てようと、脳は興奮状態にあるのだけれど。
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多和田葉子の作品は初めて読むので、この小説ともエッセイともつかない作品をどう受け留めていいのかよく分からないが、虚実ないまぜになっているものの、ベルリンの様々なエピソードが盛り込まれている点は面白かった。 ここに出てくる通りがどんなところかと思い、古いベルリンの市街地図を出してき...
多和田葉子の作品は初めて読むので、この小説ともエッセイともつかない作品をどう受け留めていいのかよく分からないが、虚実ないまぜになっているものの、ベルリンの様々なエピソードが盛り込まれている点は面白かった。 ここに出てくる通りがどんなところかと思い、古いベルリンの市街地図を出してきて調べてみた。それでも飽き足らず、グーグルマップのストリートビューで雰囲気を確かめてみた。すると、シュマーゲンドルフ通りに、本書では潰れてしまったと書かれている英語名の本屋が見つかって驚いた。ストリートビューをよく見ると、通りを走る車がどれも少し古いモデルで、よく見れば、2008年の風景であった。その後、あの本屋は潰れてしまったのかと分かった。 「あの人」と呼ばれる主人公のパートナー(?)は、東ベルリンを好まず、パンコウなどには行きたいとも思わないようだが、この感覚に共感できるという点で、少し「あの人」に親近感を感じた。この西ベルリン人らしい感覚を、今も共感できる人はどのくらいいるのだろうか。
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後の方になればなるほど幻想が多くなってくる。ベルリンに行っていればわかるのだろうが、良くは道がわからない。
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