「本能寺の変」は変だ! の商品レビュー
明智光秀の子孫という著者における「本能寺の変」汚名返上への挑戦という何やら面白そうな内容。本当に子孫なのか証明が難しいという点もあるのは仕方ないとして、大量の文献をあたりながら謎を解き明かしていく姿勢からは、やはり子孫としての強いモチベーションを感じ、血の繋がりの何よりの証明だと...
明智光秀の子孫という著者における「本能寺の変」汚名返上への挑戦という何やら面白そうな内容。本当に子孫なのか証明が難しいという点もあるのは仕方ないとして、大量の文献をあたりながら謎を解き明かしていく姿勢からは、やはり子孫としての強いモチベーションを感じ、血の繋がりの何よりの証明だと感じなくもない。 明智光秀は、織田信長に「ハゲネズミ」と虐められたり、蹴りを入れられたり。その行為が本当にあったのか、というのが、本書の「変だ!」の一部だが、それよりも、そこに子孫たる証明を見出したくて、私がハゲネズミが遺伝されているか著者近影を検索し求めたのは内緒である。 別書で『本能寺の変 431年目の真実』として真相、新説を語っているからか、本書では「変だ!」にこだわって、核心に触れない仕立てであるのは残念。 ー 刷り込みマシーンの前部は歴史小説です。『川角太閤記」「明智軍記」「絵本太閤記』などの軍記物の話をネタに使って歴史小説が次々と書かれ、それがべストセラーになったのです。吉川英治著『新書太閣記』、司馬遼太郎著『国盗り物語』など枚挙に暇がありません。 ー 「敵は四条本能寺・二条城にあり」でも、このセリフを光秀は決して言っていないという決定的な証拠があります。それは「二条城」です。二条城という言葉で信忠を意味していますが、信忠は本能寺のそばの妙覚寺に宿泊していました。本能寺の襲撃を知って、あわてて二条城(正しくは二条新御所)に移って立て籠もったのです。信忠が二条新御所にいることを光秀が知ったのは信長を本能寺で討ち終わってからです。したがって、本能寺へ向かって出陣せよという命令を下した時点では敵は二条城にはいなかったのです。正に語るに落ちた軍記物です。 例えば司馬遼太郎は大好きなのだが、あれは歴史小説で実際とは異なるエンタメ要素を取り入れている事は有名。しかし、日本人の大多数は、司馬遼太郎の歴史観を信じてしまっているという問題に近い。著者の言いたい事はよく分かる。
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明智光秀の子孫なる人物による本能寺の変解析書。私情に囚われない冷静な解釈だと思います。少なくとも歴史小説と混同していないので真実味を帯びています。 家康がキーポイントというのも面白い。確かに信長という人物、容赦なくリストラしているしありえなくも無い。ただ信長は意外と大義名分とかを...
明智光秀の子孫なる人物による本能寺の変解析書。私情に囚われない冷静な解釈だと思います。少なくとも歴史小説と混同していないので真実味を帯びています。 家康がキーポイントというのも面白い。確かに信長という人物、容赦なくリストラしているしありえなくも無い。ただ信長は意外と大義名分とかを重んじている節もみられる。どう難癖をつけても全国統一を果たしてからの方がリスクは世評としても少ないのではと思った次第です。
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評価は極上以外は4を最高にしよう だんだんわかりやすく整理されてきました 次作がもうじき入手できるので楽しみ
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
先日、秀吉の水攻めで有名な備中高松城の跡を訪れた際に思ったことは、毛利の援軍との距離は非常に近いということ。この指呼の間の毛利軍を欺いて本能寺の変を知ってから山崎まで駆け戻るには、たとえ中国大返しの移動距離が一日八十キロが変!に説明がついても、事前に和平交渉が終わっていなければ不可能だと思われた。それでは信長がわざわざ光秀の軍団(細川藤孝や筒井順慶などの与力大名を含む)を秀吉の援軍として差し向ける意味がない。やはり秀吉は事前に光秀謀叛の動きを知っていて、重大な規律違反を犯したのではないか?またこのことについて著者も度々照会する『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』では秀吉の幸運であったとして簡単に終わっていることには、全く納得出来ない。本能寺の変は謀略戦の結果であったとする方が戦国時代の常識。しかし本書の光秀謀叛の動機についてはもう少し説明がほしいところです。
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明智光秀、と言えば「本能寺の変で信長を殺したが三日天下に終わった不運な人」と、私が歴史の授業を受けた時に教わってきました。信長が光秀に殺されたのは事実としても、その動機については、今から思うと幼稚と思われるものが信じられてきたと感じています。 有名な歴史を研究している先生達がそ...
明智光秀、と言えば「本能寺の変で信長を殺したが三日天下に終わった不運な人」と、私が歴史の授業を受けた時に教わってきました。信長が光秀に殺されたのは事実としても、その動機については、今から思うと幼稚と思われるものが信じられてきたと感じています。 有名な歴史を研究している先生達がそれなりの表現で示すので、「そんなものか」と思ってきましたが、数年前に、明智光秀の子孫にあたる方が、431年目の真実(その後、改訂版として433年目の真実)を出されて、このような考え方もあるのかと思いました。 その後、本能寺の変に関する本が何冊か出されましたが、この本はそれらを踏まえた上で、著者である明智氏の最終回答が示されています。大変興味深く読ませてもらいました。やはり、家康は絡んでいたのですね。 以下は気になったポイントです。 ・川角太閤記、明智軍記、絵本太閤記、などの軍記物の話をネタに使って、歴史小説が次々と書かれ、それがベストセラーとなった。吉川英治「新書太閤記」、司馬遼太郎「国盗り物語」、そして大河ドラマの影響も大きい(p39) ・信長公記に書かれた信長と光秀は実に良好な関係である、イエズス会宣教師フロイスも書いている(p43) ・信長や光秀を扱うなら、新聞の1面(政治面)、つまり政治的事件であるべき、歴史学者が三面記事史観で唱える四国説はおかしい(p53) ・理系では、基礎研究とは別に応用研究の領域が確立しているが、歴史学ではそれが確立されていないようである。(p60) ・信長の遺骸がなかったのではなく、信長の遺骸を見分けられなかった、が正解。現代では火事になった家屋から発見された遺体の身元は、必ずDNA鑑定となる(p66) ・歴史捜査を始めるにあたっての仮設は、1)失敗すれば一族滅亡してしまう謀反を決断するので、謀反を起こさなければならない危機意識が存在すること、2)謀反が成功する目算が存在すること、である(p74) ・信長は朝廷を庇護する政策をとっていた、50代に達していた正親町天皇も皇位を譲りたかったので、天皇側から譲位の資金援助を信長に申し入れた(p82) ・イエズス会黒幕説は時代状況を見誤っている、イエズス会と信長とは相互利用の良好な関係であった(p84) ・土岐氏は、美濃の土岐郡に住み着いた源氏の一族で、地名をとって土岐氏と称した。一族は美濃を中心に拡大して、住み着いた土地の地名を姓にして、土岐明智氏、土岐石谷氏などと称して分家した。土岐氏内紛の後、かろうして美濃守護職だけは、一族の池田氏が継承して、土岐氏を称した(p101) ・従来の本能寺研究で見落とされているのは、15万人が海を渡って出陣して、5万人が生きて帰れなかった「唐入り」である。(p102) ・唐入りを先に考えたのが信長であった、天下統一を果たしていない信長は極秘にしていた。光秀はこれを知ってしまったのだろう(p105) ・家康が信長と同盟していたのは、後半の20年、信長28歳、家康20歳までの両者は、生まれながらの敵であった(p108) ・利休切腹が第一次朝鮮出兵への動きが本格化した時点で起き、関白秀次切腹事件が、朝鮮支配に向けた秀次の朝鮮出陣準備が進められていた時点で起きていたことをみれば、やはり「唐入り」が絡んだ事件であろう。二人とも、唐入りに反対する言動があったのだろう(p110) ・秀吉が光秀謀反のことを知っていたとすると、そのことを秀吉に知らせることができるのは、細川藤孝しかいない。光秀の相談相手となっていて、光秀の娘を息子の正室に迎えている人物である(p155) ・光秀の兵が思っていたのは、信長の命令で家康を討ちに行く、ということ(p158) ・信長は家康を本能寺へおびき出して光秀に討ち取らせる計画を立てた、家康が本能寺に呼び出されていたのは当然、その計画を光秀とだけ内密に相談した。この話を家康に打ち明ければ、家康にとっては光秀は命の恩人となる(p159) ・信忠のみは、予定を急に変更して上洛してしまい、光秀は信忠の存在を見落としてしまった(p160) ・道三に追われて美濃守護職を失った土岐氏は上野沼田藩の藩主となって復活した、家康の家臣である菅沼定政が家康から大名にとりたてられ土岐姓を与えられ明治維新まで存続した。彼の実父は、明智定明であり、光秀と同族の明智氏(p166) ・横浜の三渓園は、土岐一族である実業家三渓によりつくられた。(p169) 2016年6月25日作成
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