喪の日記 新装版 の商品レビュー
二十代で出会ったロラン・バルトですが、わかったと得心したことは一度もありません。にもかかわらず、ある種の深情けの網から逃れられず、読み続けていましたが、50を過ぎたころ諦めがついたようです。 バルトはとっくになくなっていて、思い入れも思い出になった今日この頃、若い友人が「バル...
二十代で出会ったロラン・バルトですが、わかったと得心したことは一度もありません。にもかかわらず、ある種の深情けの網から逃れられず、読み続けていましたが、50を過ぎたころ諦めがついたようです。 バルトはとっくになくなっていて、思い入れも思い出になった今日この頃、若い友人が「バルトを…」と口にしたことで、はっとして、手に取りました。 わからなさに角が立たなくなっている自分に気付きました。年を取ったのでしょうか。ロラン・バルトが生きた時間を超えて生きていることに気付いたのが、いちばんの衝撃でした。 ブログに、本文から少し引用しました。よければどうぞ。 https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202007030000/
Posted by
ロラン・バルトによる、"喪"の「ツイート」。彼はごく私的に=「鍵垢」で、喪の悲しみについて、つぶやいていた。 悲しみというのは、いくら言葉にしたところで「ありふれたものでしかない」が、それでも人は、喪失(例えば失恋など)をしては専門垢を作ってツイート=言葉にし...
ロラン・バルトによる、"喪"の「ツイート」。彼はごく私的に=「鍵垢」で、喪の悲しみについて、つぶやいていた。 悲しみというのは、いくら言葉にしたところで「ありふれたものでしかない」が、それでも人は、喪失(例えば失恋など)をしては専門垢を作ってツイート=言葉にし、定点を得ようとする。この時の言葉とは何だというのだろう?つまり、何のためにありうるのだろう?悲しみや喪の最中にあって、つねにすでに私は喪失された対象とは同一であり得ず、何者かであること=正体をも喪ったというのに。それでも言葉=エクリチュールは存在する。この時の言葉の力を私は知らない。 カードに記述されたつぶやき=断章。このあり方は喪のエクリチュールとして、至極正しい。喪とは語り得ぬ何かであり、断章形式に示された空白のーー沈黙なのである。 もし喪にエクリチュールがあるとすれば、この空白=沈黙こそがそれなのである。 にもかかわらず、人は・ロラン・バルトは、書く/書いた。悲しみの岸辺遠く離れて言葉の座礁にあっても悲しみも喪失も変わらない。この私の心の楔とするための喪の言葉。弔うことなどできないのである。どれだけ語ろうと、言葉を紡ごうと。 ただ、悲しみの岸辺遠く離れて、なお悲しいだけである。わりと真剣にいうのだが、おそらく、人が他者を真に愛し始めるのは、喪ってからなのである。すなわち、喪=愛なのではないか。愛とは喪の始まりであり、喪とは愛の始まりなのである。
Posted by
職業柄、難しい言葉をこねくり回すことで喪をやり過ごそうとしているけど、一番胸に迫るのはシンプルな言葉だ。 "悲しみに生きること以外はなにも望んでいない。"
Posted by
一言ひとことの、短く深く捉えた喪失の悲しみが痛いほど伝わってくる。 生まれ持った洞察力の鋭さが、自身の喪失をより一層えぐるように冷たい言葉を生み出しているが、しかしそれが、その作業を怠らずにいられないバルト自身の喪の作業である。
Posted by
- 1