草はひとりでに生える の商品レビュー
Oshoは晩年の数年間、禅についての講話のみを語った。 それまでの生涯にわたって、禅だけではなく、古今東西の仏典、聖典、禅録、タオ、ヨーガ、スーフィズム、タントラなどの経典を題材としながら、人間意識の発展の局面すべてについて語ってきていたOshoが、なぜ最後には禅だけを語ったの...
Oshoは晩年の数年間、禅についての講話のみを語った。 それまでの生涯にわたって、禅だけではなく、古今東西の仏典、聖典、禅録、タオ、ヨーガ、スーフィズム、タントラなどの経典を題材としながら、人間意識の発展の局面すべてについて語ってきていたOshoが、なぜ最後には禅だけを語ったのだろうか? 彼ほどの人になれば、自分の死期については、ほぼ予想はしていたのではないかと思われるので、彼は禅を最後のメッセージとして選んだことになる。 そもそも、禅とは何だろう? Oshoは次のように語る。 「禅とは、ひじょうに並はずれた成長をいう。その可能性の実現は稀にしかない。なぜなら、数多くの難関が伴うからだ。 過去にも何回かその可能性は存在した。それは、スピリチュアルな出来事のうち、あるものは成長して禅のようになり得たかもしれないということだが、しかし、全面的に実現するには至らなかった。 人間の意識の歴史の上で、禅のようなものが実現し得たのは、今までに一度しかない。本当に稀有なことだ」 http://ameblo.jp/oejbooks/entry-11956774104.html
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『草はひとりでに生える』は、インドに生まれた現代の覚者OSHOが禅の講話を題材に、難解な内容をやさしくかみくだいた講話集です。 この講話のなかでOSHOが語るのは、禅などの逸話、ないし公案を素材にしながら、人生を生きるすべての根本的な問題についての理解です。 臨在禅では、いわ...
『草はひとりでに生える』は、インドに生まれた現代の覚者OSHOが禅の講話を題材に、難解な内容をやさしくかみくだいた講話集です。 この講話のなかでOSHOが語るのは、禅などの逸話、ないし公案を素材にしながら、人生を生きるすべての根本的な問題についての理解です。 臨在禅では、いわゆる禅問答としての公案は、修行者が悟りを開くための課題であり、その公案を解くことが悟りの証明のひとつとなります。 その公案をOSHOは見事に、明快に解いています。 すでに悟りを開いた人が公案を解けるのは、当たり前といってしまえばそれまでですが、読者の立場からすれば、公案の解説を読むことで悟りの境地を味わえる。 もっといえば、悟りの境地に導いてもらえるようなものです。 そして、悟りの境地にしたがって生きる生き方が語られています。 2500年前、インドで生まれたお釈迦さまは、悟りを開いた後、人々が苦しみのなかに生きるのを見て、すべての人々の苦しみを取り除き、幸せに導くために説法をはじめました。 その教えは28代目の達磨大師の禅の教えとして、中国を経て日本に伝わり、開花しました。 そして今、禅の教えのエッセンスはOSHOとともに、再びインドで語られることになったのです。 続きは→ http://ameblo.jp/aurasoma-unity/entry-11802700738.html
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