『ふしぎなキリスト教』と対話する の商品レビュー
キリスト教とはなにか、ということを読みながらあれこれ考えたね。俺自身、ボーン・クリスチャンというやつで赤ちゃんのときに親によって洗礼を受けさせられたクチだ。子どもの頃は教会に通った記憶があるものの、大人になってからはトンと行っていない。劇的なきっかけがあって宗教と出会い、ひきつけ...
キリスト教とはなにか、ということを読みながらあれこれ考えたね。俺自身、ボーン・クリスチャンというやつで赤ちゃんのときに親によって洗礼を受けさせられたクチだ。子どもの頃は教会に通った記憶があるものの、大人になってからはトンと行っていない。劇的なきっかけがあって宗教と出会い、ひきつけられたわけではないのだ。それでも読書を趣味としていることもあってか、折にふれ宗教について、キリスト教について、カトリックについて、考えることはある。本書を読むと、著者の来住(きし、と読むそうな)神父さんはキリスト教徒は、神と対話することに肝があると考えていることがよくわかる。あぁ、だから本のタイトルも『「ふしぎなキリスト教」と対話する』なんだね。 『ふしぎなキリスト教』って、昔読んだなぁ。当時はわりと話題になったと思う。 ふしぎ、といって首をかしげるのも無理ない話、考え方というものが、古来生き残っている宗教にはあるものだ。キリスト教にも当然それはある。ふしぎなところがあるからダメなのではなく、ふしぎなことを「どうして?」と考え、答えを探すことこそ宗教の意義であり、神と対話するということなのだろうね。 たとえば、パラドックスという言葉が、本書では繰り返し出てくる。 パラドックスの例としては、「神の全権」と「人間の努力」がある。神が全知全能であり、すべてが神によって決められているというなら、自分が努力しようが、怠けようが、それは神が決めたことということにならないか?という話。これについて来住神父は答える。 「「すべては神の意志による」という命題と、「人間は努力しなければならない」という命題の矛盾です。キリスト教は、この場合も、どちらの命題も捨てません。」 「どう解決されるのか。論理的思考をヴァージョンアップすることによってではありません。どちらの命題も「本気で生きる」ことによってです。」 「「そうせねばならない」というより、たいていの人間は現実にそうしています。命題Aと命題Bの間で揺れ動きながら、現実と格闘します。件名に努力していると、「すべてを行うのは神だ」という真理を軽んじているのではないかと思う。一方、神の側から何かが訪れるのをじっと待っていると、何もしないでいることが耐え難くなる。それは坩堝のようなものです。その坩堝の中で鍛えられて、人間は全き者に近づいていく。」 前、内田樹の本で、葛藤があってこそ人間は成熟するという話を読んだことを思い出した。 成熟するとか、よりよい人間になる、よりよく生きるというのは似た話なのかもしれないな、と思った。
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