戦争の記憶を武蔵野にたずねて 増補版 の商品レビュー
最近は、チャリ(一応ロードレーサー)で、東京見物としゃれ込んでいる。(基本東京生まれの東京育ちではあるが・・) 今までは、東京の西半分の神社・お寺の目指して、自宅から往復80Km~90Kmのところまで足を延ばしてる。すでに20箇所以上行っている。 何気なしに、この本を買っ...
最近は、チャリ(一応ロードレーサー)で、東京見物としゃれ込んでいる。(基本東京生まれの東京育ちではあるが・・) 今までは、東京の西半分の神社・お寺の目指して、自宅から往復80Km~90Kmのところまで足を延ばしてる。すでに20箇所以上行っている。 何気なしに、この本を買って、事前にぱらぱら読んでいた。正直、武蔵野の地にこれだけの戦争遺跡があるとは思わなかった。米軍の空襲を保谷・田無近辺で9回近くも受けている。中島飛行機武蔵製作所(現、NTT武蔵野研究所はその一部)の存在が大きいわけであるが、ここで陸軍、海軍の航空機のエンジンを製造(ゼロ戦に使用した栄エンジンなど生産台数の30%は本工場)していたとのことである。米軍が躍起となって、工場をつぶすために空爆してきた。当然、周辺の地域も空爆を受けており、近隣のお寺さんに各種慰霊碑がたっている。 現在、製作所の中心部ははらっぱ公園となっており、当時をしのぶものはほとんどなく、のどかに子供たちが遊んでいる景色からは想像しにくい。 今年の終戦記念日の8月15日に、近場でのチャリによるポタリングということで、この本が紹介している遺跡・モニュメントのいくつかを回ってみた。全行程50kmであった。以下に印象的だった所を挙げる。 1)各種軍用引き込み線の後 (田無、ひばりが丘、境) ・中島飛行機までの中央線からの引き込み線跡 →これは知っていないとわからないような遊歩道 ・中島飛行機から中島金属(現 住友重機)までの引き込み線用のトンネル →道路に対してトンネルが斜めに向いていて変。なにかあったのかと思う。 ・中島金属から西武線までの引き込み線 →よく散歩するところだが、なぜ、このような地形なのかよくわからなかった。説明を読んでなるほど、と納得。 2)高射砲台跡(大沢) ・保育園・福祉施設の中にある。事前に連絡して見せてもらった。保母さんが一通り説明してくれた。 ・終戦記念日とのことで、当時の関係者と子供たちがお参りしたとのこと。 ・保育園に高射砲台跡、それも3,4個ある。さらに首都防衛高射砲陣地跡なる石碑あり。 ・ここからの見晴らしがよい。味の素のスタジアム、調布飛行場が眼下に見える。 ・子供たちは日々これを見て、何を考えるのであろうか。。日常の中に戦いの跡がある利点を生かし、今後もきちんと考える素地を持ってもらえれば と思いながら後にした。 3)調布飛行場 ・東京上空を守る精鋭部隊「飛行第244戦隊」が駐留。飛燕50機ほど。 ・末期は、対艦特攻の訓練基地で、90機ほどが九州に向けて出発し、終戦時にはまだ40機ほど待機していたとのこと。 4)掩体壕(えんたいごう) (調布飛行場北東部ほか) ・本土決戦を想定して、陸軍の戦闘機(飛燕)を格納した半地下のセメント製の壕。調布飛行場に2式、少し南の白糸台の民家の中に1式。 ・きちんと保存している。 終戦記念日にこのような戦跡を見回ったせいもあるが、67年たった後でも、きちんとその場所にモニュメントと解説を残していくべきと感じた。我々の世代は両親やその兄弟が戦争を体験している。私の場合、叔父2人は幼年士官学校からの職業軍人でいずれも戦死している。特に、下の叔父は戦功を立てたこともあり、金鵄勲章を頂いており、父から日記と共に勲章を受け継ぐ予定である。ある意味で身近な体験と言える。 次の時代に何を伝えるべきなのか、単に、「戦争はよくない」ではない、「なにか」を歴史認識の考え方含めて継承していく必要性をかんじた。 いろいろと考えてしまった終戦の日であった。
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