イデオロギー批判の視角 の商品レビュー
本書において筆者は、教条的な「土台‐上部構造」論はもちろんのこと、これまで展開されてきた「土台‐上部構造」論批判をも、批判的に乗り越えることをもくろんでいる。 従来の批判もまた、2領域間の作用・反作用あるいは相互浸透を主張するとはいえ、根本的には「土台‐上部構造」論と同様の立...
本書において筆者は、教条的な「土台‐上部構造」論はもちろんのこと、これまで展開されてきた「土台‐上部構造」論批判をも、批判的に乗り越えることをもくろんでいる。 従来の批判もまた、2領域間の作用・反作用あるいは相互浸透を主張するとはいえ、根本的には「土台‐上部構造」論と同様の立論をしている点で一定の限界を有しているという指摘には、多いに賛同できる。 しかし、著者がそのオルタナティヴとして提示している「自己包括の弁証法」については、評者の非力ゆえに十全に理解しえたとは言えない。 『資本論』第1部の全体的な読解を通じて、この「自己包括の弁証法」、すなわち「ある契機が他の諸契機と相互に規定しあいつつも、その契機が自己のうちに他の諸契機を包括する」(p29)という視角が、マルクスの社会把握を基礎づけていることが多くの紙幅を割いて説明される。 この説明については、特に論理的な破綻もないし、確かにそのように読める。しかし、これだけでは「自己包括の弁証法」の批判的有効性が十分に発揮されたとは言い難いように感じる。 「おわりに」で言及されている通り、筆者は「現代日本において小農経営を営む人々の日常知である農本主義と、それのイデオロギー知である日本農本主義思想の検討」をこれからの課題として上げている。 この課題は、本書で示された「自己包括の弁証法」が、そうした現代日本社会の現実を分析する際にいかに有効な視角たり得るのかを問う試金石となるだろう。 本書の堅実で実直な理論的営為とそこから洞察された「自己包括の弁証法」とをより良く理解するためにも、次回作が大いに待たれるところである。
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