邪馬台国と纒向遺跡 の商品レビュー
JR桜井線の別称は『万葉まほろば線』その中の巻向駅のそばにあるのが纒向遺跡。電車の中からも見えるこんもり盛り上がった山は箸墓古墳。宮内庁言うところのいたかどうかわかんない欠史八代の孝霊天皇の媛ヤマトトトモモノヒメ(この時代の人はこれをすらすら言えたのだろうか…)の墓ということにな...
JR桜井線の別称は『万葉まほろば線』その中の巻向駅のそばにあるのが纒向遺跡。電車の中からも見えるこんもり盛り上がった山は箸墓古墳。宮内庁言うところのいたかどうかわかんない欠史八代の孝霊天皇の媛ヤマトトトモモノヒメ(この時代の人はこれをすらすら言えたのだろうか…)の墓ということになっている。 これはおそらくは最も古い前方後円墳の一つで、邪馬台国畿内説を唱える人たちからは「卑弥呼の墓」という説が謳われているそうな。そしてまさにこの本はそういう人たちによって編まれた本。 ただし残念なことに古墳自体は天皇陵墓なので掘り返すことはできず、あくまでも周辺のみの調査になる。それでも夥しいお宝が掘り出されて来るわけだからとても説得力があって面白い。 何よりも驚かされるのは、いわゆる大仙陵古墳(モト仁徳天皇陵)のような前方後円墳は、基本的に元の地形を利用した形であっちを削りこっちを盛って作ってあるそうなのだけど、この初代前方後円墳ともいうべき箸墓古墳はゼロから土を盛って作られているということ。そこに込められた人々の想いとはどれほどのものなのだろう、と思う。それを考えると梅原猛じゃないけれど、神道とはまず怖れに発すると思いたくなってしまう。
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2009年のシンポジウム記録であるが、去年の夏の発行。当然纒向遺跡で発見された大型建物に関して専門家の討論の記録です。 去年桜井市を旅したし、類似の本は幾らか読んだのだが、たくさん発見があり、とても興味深かった。 とりあえず、 興味深い部分を抜き書き。 (橋本輝彦) 西暦...
2009年のシンポジウム記録であるが、去年の夏の発行。当然纒向遺跡で発見された大型建物に関して専門家の討論の記録です。 去年桜井市を旅したし、類似の本は幾らか読んだのだが、たくさん発見があり、とても興味深かった。 とりあえず、 興味深い部分を抜き書き。 (橋本輝彦) 西暦200年ごろは,今回の施設がつくられたが、260-270年ぐらい中心的な施設は、渋谷向山古墳と珠城山古墳の間に 移るだろう。 纒向のひと は、農業を全くしなかった?!農耕具、水田跡かない。 掘立柱形式建物は多いが、ピークを過ぎてやっと竪穴式住居が出現。ここにいたひとは、地べたに住まないひと、身分の高いひとばかり住んでいたのではないか。 朝鮮土器は、三世紀中が出土。 ベニバナは、染め物の染料に使った廃液の中にあったのだろう。三世紀中の溝から発見。日本国内に自生しないもの。ベニバナ染めは、高度な技術が必要。大陸の技術者の存在がうかがえる。 今回の神殿状建物は予測されて出た。 (石野博信) 纒向遺跡が出来る直前、銅鐸を叩き壊すということがいろんなところで出土。纒向の人たちは、よっぽど厳しい人間ではないか。(今までの神様の否定を先ず行っている) 穴に埋めたのは、従わない村だったのでは。 この地域、三世紀前半から120-130年の間に26もの古墳が作られている。数が多い。もしかしたら、同時に二基づつ作られているのでは。祭司担当と政治担当のヒメ・ヒコ制だったのでは。 (シンポジウム) 辰巳 建物は石塚古墳とセットだった。 わさわさ倭人伝が卑弥呼のところで「鬼道を事とし」と記述するのは、この段階に宗教的な画期があったのだろう。鬼道は、おそらく祖先の祭りを行うことで、不老長寿、子孫繁栄、立身出世、富貴栄華というある意味で現世利益的な宗教で、それを神仙界として観察したのだろう。 石野 纒向は物流センター、最も広域のそれだったのでは。 辰巳 唐古・鍵では何故だめだったかというと、銅鐸の生産や信仰を引きずっている集団とは全く違ったものとして、新しくつくらなければならなかった。 橋本 甕の地元生産は、7対3 で三割が纒向周辺の土で作られている。一定期間住み着いてはいるが、あるていどで、絶えず人間が入れ替わっていた。
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