ルナ=パーク の商品レビュー
『確固としたものと思われた友人たちが雪だるまに過ぎず、目の前で溶けだして泥濘になってしまったのでした』 日常は平穏であるべきだ。何事も起こらず、一日を終える、平穏無事に。そうやって日々は過ぎてゆく。 しかし平穏無事な日常というものが、もし、とある日の一回限りのものを指すことば...
『確固としたものと思われた友人たちが雪だるまに過ぎず、目の前で溶けだして泥濘になってしまったのでした』 日常は平穏であるべきだ。何事も起こらず、一日を終える、平穏無事に。そうやって日々は過ぎてゆく。 しかし平穏無事な日常というものが、もし、とある日の一回限りのものを指すことばではなく、「日々」というように繰り返しを暗に意味することばへ拡張させられたならばその瞬間、何か穏やかならざるものが忍び込む。繰り返し。何故それは人を狂気に駆り立ててしまうのか。 田舎ののんびりとした空気に、張り詰めた心への癒しを期待して男はやって来る。腰を落ち着け、周囲を見回し、そして満足する。しかし、満足ということばが変化に対して与えられる形容であって継続する状態に対する形容ではないということを、自分たちはすぐに思い知らされる。何一つ変わらない筈なのに、さっきまでの満足はすでにほんの少し小さくなり、昨日の満足は今日には色褪せる。それを維持するべく努力したところで、食い止めることはできない。 それは人間が強欲であるからなのか。それとも自分たちの感覚というものはしょせん相対的なものにしか価値を見いだすことができないからなのか。昨日までの友は今朝には他人となり、逆に、今朝の他人は夕べには同胞となる。紙屑は秘められた事実を書き記した手がかりとなり、現実のほの暗い陰にこそしまい込まれた真理の存在があるなどと、思い込んでしまう。紙屑をいつまでも紙屑と見定め、陰は日の作り出す幻に過ぎないと考えることができなくなる。それもこれも、紙屑を見つめ続ける、あるいは、陰を見つめ続ける、という「続ける」という行為がもたらす結果だ。何かを際限なく繰り返し、そして人は狂う。 それにしても、この手の枠組みの物語が多いのは何故なのか。それは自分たちに対する警句なのか。それともただ単に自分たちの中にある黒いものを人間は怖いもの見たさで覗き込みたいだけなのか。覗き込んで少しばかりくらくらとしてみたいということなのか。そんなことを考えながら読んでいると、ソファに寝転がっているにも拘わらず乗り物酔いのような感覚に襲われた。
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