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現代親鸞教学の先覚者たち の商品レビュー

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2024/03/31

近代の思想家たちによる親鸞解釈を、著者自身の関心にもとづいてとりあげ、その議論を紹介するとともに検討をくわえている本です。 とりあげられている思想家は、清沢満之、曾我量深、金子大栄、安田理深、蓬茨祖運、西田幾多郎、河上肇、三木清ですが、割りあてられている紙幅にバラつきが大きく、...

近代の思想家たちによる親鸞解釈を、著者自身の関心にもとづいてとりあげ、その議論を紹介するとともに検討をくわえている本です。 とりあげられている思想家は、清沢満之、曾我量深、金子大栄、安田理深、蓬茨祖運、西田幾多郎、河上肇、三木清ですが、割りあてられている紙幅にバラつきが大きく、とくに曾我量深、金子大栄、西田幾多郎の三人により多く著者の関心が向けられているようです。 曾我をあつかった章では『如来表現の範疇としての三心観』が、金子をあつかった章では『真宗に於ける如来及浄土の観念』がそれぞれとりあげられ、著者自身がそれらの議論をパラフレーズしつつ、間に「解説」が差し挟まれるというスタイルで議論が進められています。曾我の著作は、法蔵菩薩を唯識論における阿頼耶識になぞらえるという大胆な議論がおこなわれているものですが、著者は宗教的自覚としての「信」の深まりを表現するものとして読み解いているように思われます。また、金子の「人生観としての真宗」は生活のなかで信仰が生きることを重視する、ある意味で実存的な立場に立ったものですが、カント哲学の概念を借りつつ議論が展開されています。著者は、そうした哲学的な概念にもとづく議論を排することで、金子の真意をとり出そうと努めています。 また西田幾多郎にかんしては、晩年の「場所的論理と宗教的世界観」がとりあげられ、批判的な立場から検討がくわえられています。著者は、「自己をつくしきって、はじめて信に入る」という西田のことばに対して、「そうではない。信に入ってはじめて自己自身をつくしきることができるのである」と述べます。おそらくここには、禅の立場から浄土思想を解釈しようとすることをめぐる問題が存在していると考えられます。これと関連して、蓬茨祖運が「大拙さんは本願の根元が空だとおっしゃったけれど、あれは逆ですね。空の根元が本願なのに」という批判を述べていたことが紹介されているのも、興味深いと感じました。

Posted byブクログ