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嘔吐 新訳 の商品レビュー

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38件のお客様レビュー

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2014/09/10

アントワーヌ・ロカンタンの手探りの思索の記録。すべてのものはただ存在しているだけでそこに意味などないと気付いた瞬間からロカンタンの吐き気が始まる。 「本質は偶然性だ」という発見。クライマックス。思ってたより小説らしい小説、というどころかフランス文学(ほとんど知らないけど)の名作の...

アントワーヌ・ロカンタンの手探りの思索の記録。すべてのものはただ存在しているだけでそこに意味などないと気付いた瞬間からロカンタンの吐き気が始まる。 「本質は偶然性だ」という発見。クライマックス。思ってたより小説らしい小説、というどころかフランス文学(ほとんど知らないけど)の名作の匂いを確かに感じました。 面白かった。

Posted byブクログ

2013/11/20

 1938年、ジャン‐ポール・サルトル著。フランスの港町ブーヴィルに住み、ロルボン侯爵についての研究をする、孤独な金利生活者ロカンタン。彼の書いた日記という形で物語は進行する。孤独が故に膨大な「物」に囲まれている彼において、やがて「物」との関係性が崩れ始め、哲学的な狂気が彼を襲う...

 1938年、ジャン‐ポール・サルトル著。フランスの港町ブーヴィルに住み、ロルボン侯爵についての研究をする、孤独な金利生活者ロカンタン。彼の書いた日記という形で物語は進行する。孤独が故に膨大な「物」に囲まれている彼において、やがて「物」との関係性が崩れ始め、哲学的な狂気が彼を襲う。  名前は知っていたが、サルトルを読んだのは初めてだった。新訳なので文章自体は読みやすく、訳注や後書きにおける解説も丁寧だが、哲学的な各モチーフが濃すぎて決して読みやすくはない。飲み下すのに時間がかかるし、読み終えても完全に理解できたとは言い難い。そういう部分がまさに哲学書のようだ。  ただ、小説としてもしっかり成り立っている。独学者とアニーの二人は強烈な印象を残すし、主人公を取り巻く環境・現象(カフェや樹木のみならず主人公を取り巻く人物達も含めて)を細かく描写しているからこそ、それが「物」として哲学的に解体していく様子がスリリングに感じる。こういった、当たり前のもの、いわば足元が解体していく感じこそ哲学の醍醐味だろう。だが、それはある種の狂気に違いない。ロカンタンのことを考えると、そう思わざるを得ない。  何年か経ってから再読してみたい。また違ったものが見えてくるだろう。

Posted byブクログ

2018/12/15

208ページまで読んだ。難しい。 『嘔吐』は、「実存」を発見する道程を描いた作品ではあるが、決して実存主義の思想に基づいて書かれた小説ではないのである。(解説、p.336)

Posted byブクログ

2013/10/31

サルトルの著書は初めて読む。 「存在」、「存在する」という日本語に偶然性の意味は余りないので、そのまま読むと主人公ロカンタンの嘔吐感は理解しにくかった。その辺りを意識してもう一度読み直したい。 とは言え、実存主義を学びたかったのでこれより「存在と無」を読むべきだったか。

Posted byブクログ

2013/03/11

「私にはいわゆる心配事がない。金利生活者のように金はあるし、上役はいないし、妻も子供もない。私は存在している。ただそれだけだ。そしてこの厄介な問題は、あまりにぼんやりした、あまりに形而上学的なものなので、恥ずかしくなるほどだ。」 ロカンタンとはこういう男だ。こういう男の悩みにど...

「私にはいわゆる心配事がない。金利生活者のように金はあるし、上役はいないし、妻も子供もない。私は存在している。ただそれだけだ。そしてこの厄介な問題は、あまりにぼんやりした、あまりに形而上学的なものなので、恥ずかしくなるほどだ。」 ロカンタンとはこういう男だ。こういう男の悩みにどれほどの価値があるか……まあそれは置いておこう。本人もそのことは自覚してるのだから。 ただこういう男の主観で語られる物語は、予想通りとても退屈だ。ロカンタンは「嘔吐」を感じるのではなく、ロカンタン自身が「嘔吐」そのものなんだ。 昔の彼女であるアニーの「自分では何一つやろうともせずに、まわりの物が花束みたいに配置されていないからというので、愚痴をこぼしているだけじゃないの。」という批判もそれなりに的を射ていると僕は思う。 ロカンタンは存在を恐れる。もっというなら「不確かな存在」を恐れてる。 「存在している。だから何だ?」 興味深かったのは独学者がアメリカの著書について話しながら、ロカンタンが自身に課している問題は「人生は生きるに値するか?」ということじゃないかと探りをいれる場面(もしかしたら、とカミュの「シーシュポスの神話」を思い浮かべたけど多分ちがう)。 ロカンタンは「もちろん違う」と一蹴する。 ……うーん、こじれてきた。ちょっと整理しよう。 ロカンタンが癒しを感じるものはユダヤ人歌手がうたうレコードを聴いている時だ。音楽は、音符は、鳴らされるべく配置され、その音を出した次の瞬間にはもう死んでいる。音楽には過去も未来もない、ただその瞬間にのみ在る。 それはロカンタンが〈冒険〉と呼び、アニーが〈完璧な瞬間〉と呼んだものじゃないか。二人とも別々の方法でそれを求め、そうして裏切られた。 〈冒険〉は物語となった時点でまったくの別物になっている。だから「選ばなければならない。生きるか、物語るかだ。」 そして例え生身の〈冒険〉を選んだとして……要は、人間は飽きるし、倦み疲れる。〈冒険〉が「生」だとしても、人間は生き続けることはできない。 マロニエの根を見つめながらロカンタンは洪水のように一挙に悟る。 けどこれは今までよりもっと説明が困難だ。よくわからん。 なんか「存在のデフレ化現象」という言葉を思い付いた。 「木(人間)とかたくさん存在しすぎて価値がない」(ゲロゲロ~) 「本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。」うーん、わかったような気になるけどよくわからん! 僕のこの本に対する評価は、ロカンタンの次の言葉に集約される。「そして考えた、『なんて長いこと笑わなかったんだろう』」。 ロカンタンの物語は僕にとってはあまりに卑屈で、窮屈で、退屈だ。 そして僕としてはやっぱりニーチェの「ツァラトゥストラ」のこの一節に漂着する。 「わたしは踊ることのできる神だけを信じるだろう。 わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。――かれによって一切の物は落ちる。 怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!」 ロカンタンはちょっと運動したほうがいい。

Posted byブクログ

2012/07/08

存在の不確かさ。ぼんやりと感じたことのあるような感覚が言葉で言い表わされていて、しっくりするところもある。サルトルの思想は面白い。

Posted byブクログ

2012/04/28
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※このレビューにはネタバレを含みます

好きな箇所 ”ーところが今は、このサクソフォンの歌がある。そして私は恥じている。輝かしい小さな苦悩、典型的な苦悩が生まれたのだ。サクソフォンの4つの音。それが行ったり来たりする。まるでこう言っているようだ、「私たちのようにすべきだ、リズムに合わせて苦しむべきだ」。その通りだ!もちろん私もこんなふうに苦しみたい。リズムに合わせて、自分自身への媚びも憐れみのなく、乾燥した純粋さを伴って苦しみたい。しかし、ジョッキの底のビールが生ぬるかったり、鏡に茶色の染みがついていたりするのは、私が悪いのだろうか?私が余計な者であり、このうえもなく誠実で乾ききった私の苦悩が、ずるずると重たくなって、潤んだほろりとさせる大きな目、しかし醜悪そのものの目をしたゾウアザラシのように、だぶだぶの肉と広い皮膚を同時に備えるようになったとしても、それは私のせいだろうか?ー”(p.290) 読めば読むだけ、味が増す作品だと思う。 この本との出会いに感謝したい!

Posted byブクログ

2012/10/23
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

1970年代という不安定な時代に、高校生という不安定な世代で読んだ。不安を増長するような気もした。「嘔吐」が現代に受け入れられるかは解らない。自分の子供に勧める自信はない。 不安な時に、本を読むのでは安定できないかもしれない。運動したり、旅行するとよいかもしれない。 不安な時に,いろいろな作品を読むとなにか、ひょっとしたらつかめるかもしれない。 いろいろな本を読むことが大切だという意味で、お勧め1000冊に入れたい。 歴史に興味をもち、近代を理解しようと思ったときには、近代の代表作の一つにあげてもよい。 時代を理解するという視点で読んでみて欲しい。 人はそれを「実存主義」と呼ぶ。 実存主義という言葉は気にしなくてもいいかもしれない。

Posted byブクログ

2011/10/30

孤立した人間×マロニエ(木の根っこ)×「存在は必然ではない。存在するとは単にそこにあるということなのだ。」というラディカルな気づき=『嘔吐』 『本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ。存在者は出現し、出会い...

孤立した人間×マロニエ(木の根っこ)×「存在は必然ではない。存在するとは単にそこにあるということなのだ。」というラディカルな気づき=『嘔吐』 『本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ。存在者は出現し、出会いに身を委ねるが、人は絶対にこれを演繹できない。そのことを理解した人もいるだろう。ただし彼らは、必然的な自己原因の存在を作り上げて、この偶然性を乗り越えようと試みたのだ。ところで、いかなる必然的なものも、存在を説明することはできない。存在の偶然性は見せかけでもなく、消し去ることのできる仮象でもない。それは、絶対であり、したがって完全な無償性である。』

Posted byブクログ

2011/10/26

主人公ロカンタンの日記形式で綴られた日常から、「存在」に悩む様子へ。 んー、私にはやはり難解でした。

Posted byブクログ