老いのかたち の商品レビュー
昭和7年生まれ、黒井千次さんの「老いのかたち」、2010.4発行です。読売新聞夕刊に連載の「時のかくれん坊」を書籍化した作品です。「時のかくれん坊」、今も続いてますよね!?①いつの間にか、「老化」の代わりに「加齢」という言葉が。確かにw。「敗戦」を「終戦」というがごとしでしょうか...
昭和7年生まれ、黒井千次さんの「老いのかたち」、2010.4発行です。読売新聞夕刊に連載の「時のかくれん坊」を書籍化した作品です。「時のかくれん坊」、今も続いてますよね!?①いつの間にか、「老化」の代わりに「加齢」という言葉が。確かにw。「敗戦」を「終戦」というがごとしでしょうか・・・。②活力が乏しく、スピード感に欠け、持久力も弱く、単独生活にやや困難が伴う・・・、病と老いはよく似てる③大きな違いは、病は相対的で治癒により脱出可能、老いは絶対的で逃れる術無し④でも、「子供心」は永遠に持続~(^-^)
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老いのかたちは白骨死体、手厚く箪笥の中や床下に入れられたり庭に埋められたり、離れたくないと身近に置いて、死んだことにはしたくないと死亡通知を出さず代わりに老齢年金いただかれちゃったりして・・・。 彼奴らにとってはした金でも私たちには大事な虎の子を、社会保険庁(現・日本年金機構)...
老いのかたちは白骨死体、手厚く箪笥の中や床下に入れられたり庭に埋められたり、離れたくないと身近に置いて、死んだことにはしたくないと死亡通知を出さず代わりに老齢年金いただかれちゃったりして・・・。 彼奴らにとってはした金でも私たちには大事な虎の子を、社会保険庁(現・日本年金機構)のウジ虫どもが寄ってたかって使い倒して出るか出ないかわからないようにしてしまった、いってみれば国家的詐欺とでもいうしかないような代物にしてしまったわけですが、そういうとんでもない現実が待っている未来の≪老い≫という、いずれ私たちにも到来する重要なテーマは、今からでも決して早すぎはしない、否、ひょっとして最大の問題性をかかえたものかもしれません。 ところで、わが赤瀬川源平が、はつらつと颯爽と高らかに「老人力」と喝破したのが1998年ですから、もう今から12年も前になりますが、黒井千次もすでに4年前に講談社新書で『老いるということ』を表してはいますが、それは過去の作品から抽象した旧態依然たる、それぞれの自然体の必然的な老境・老後、みたいなものでしごく落胆したものでした。 もしかして、赤瀬川源平の目の覚めるような革命的な提言に怖れをなした保守反動の側からの応酬かもしれないと、思わず勘ぐりたくなったりしたものですが。 はたして、かつて彼の『エゴン・シーレ魂の裸像』(1999年)で大感激させてもらった目に狂いはなかったのか、もう一度確かめようとして本書を読んだわけですが、なんということでしょう、残念ながら好々爺然として渋茶を飲みながら、相変わらず日常茶飯事の小津安二郎ふうの感慨をつぶやくにとどまっています。 こんなはずじゃなかったのに、あの鋭い感受性からまったく新しい老境のスタイルが提案されると固く信じていたのに、嗚呼、老いたりし黒井千次! でも、これもまさに彼でしか到達できえない唯一無二の境地なのですから、そんなににべもなく邪険にするのもどうかと思います。たしかに味わい深いにはちがいありませんので、もう茶々を入れるのはよしましょう。どうか、じっくりとご賞味あれ。
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[ 内容 ] 昭和一桁生まれの作家が、自らの日常を通して“現代の老いの姿”を探る。 同級生の葬儀を同窓会になぞらえ、男女の老い方の違いに思いを馳せ、「オジイチャン」と呼ばれて動揺、平均余命の数字が気にかかり―。 冷静な観察眼と深い内省から紡がれる、珠玉のエッセイ五六篇を収録。 [ 目次 ] 1 病気待ちの列(父という時計;自然に老いていくには? ほか) 2 友を送る―これも同窓会(時間ないのは僕なのに;追い抜き、追い抜かれ ほか) 3 老い遅れに気をつけて(歳を取れなくなった時代;一つ拾い、一つこぼす ほか) 4 「普通高齢者」がイチバン(平均余命で数字遊び;生命の灯が点るのも病院 ほか) 5 “冷や水”とのつきあい方(二度こぼしても―失敗を恐れずに;ヒガミとアキラメ ほか) [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
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人間って、年老いると、こんなに「老い」のことばかり思い続けるものなのか? 私は、私に関することはとてもよく考えます。 でも、「中年女性」だったり、「オバサン」だったりする自分の属性について考えることはまず、ありません。 だから、この本、エッセイ56本すべて「老い」をテーマに貫...
人間って、年老いると、こんなに「老い」のことばかり思い続けるものなのか? 私は、私に関することはとてもよく考えます。 でも、「中年女性」だったり、「オバサン」だったりする自分の属性について考えることはまず、ありません。 だから、この本、エッセイ56本すべて「老い」をテーマに貫いていることに、驚きを覚えました。 その驚きは、感動ではなくて、「ああ、やっかいだな」というため息が混じる種類の感情で、「あきれる」に近いのでしょうか。 もちろん、「老い」をテーマにした本なのだから、最初から最後まで、老いのことばかりで間違いはありません。 でも、黒井千次さんですよ。 一人の老人以前に、一人の大御所作家なのですから、もう少し別の視点があってもいいのではないか。 そう思いつつ、読みすすみました。 某出版社のパーティーに、孫と同じ幼稚園に子供を通わせる女性作家が子供連れでやって来ていました。 彼女が、子供達に紹介してくれたときのことです。 「ほら、Mクンのオジイチャンよ」 普段は年齢を意識することのない、作家対作家の付き合いの中で、いきなり「オジイチャン」と紹介されたことにたじろぎます。 オレは、オジイチャンだったのだ、と急に老いたような感慨に包まれた。 老いを意識することについて、黒井さんはこんなふうに分析します。 老いは自分の内側から訪れるというより、むしろ他人によって運ばれてくる。多くの人が語ったり書いたりしているが、乗物の中で若い人から初めて座席を譲られたときの衝撃は容易に忘れがたいものがある。 好意を素直に受け入れられるようになるまでには、老いの自覚といった手続きが必要であるらしい。 老いてみてはじめてわかる、こんなリアルな悩みもあります。 いろいろ考えるうち、こんな応用問題が浮かんでくる。こちらが優先席に座っているところにもしもっと年寄りの客が乗ってきたならば、さっと席を譲ることができるだろうか、と。 当然そうする筈だと頷く一方で、こういう年寄りは混み合う時間の電車に乗らなければよいのに、と不平を噛みしめるのではあるまいか。 そうだとしたら、優先席に座る若者とこちらとの間にさして違いはないように思われてくる。老いてゆく自分とそれを眺める自分との間には、この種の面倒でややこしい関係がひそんでいる。 最初に、なぜこんなに「老い」を考え続けるのかわからないと書きましたが、なんとなくわかってきました。 黒井さんは、「自分の老い」を生きながら、その「老いていく自分」を通して「現代の老い」を観察者として観察しているのですね。 それは、たしかに、黒井さんにしかできないことかもしれません。
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