たかが服、されど服 の商品レビュー
伝わらない文章って自己中心的だよな。 ヨウジヤマモトさんは天才だから構わないが、僕みたいな凡人は、発話したり他人に見せるために書きつけた時点で、分かりやすく伝える義務が生じると考えるべき。 もちろん読み手のリテラシー不足で伝わらないケースもあるとは思うが、常に他者に寄り添う姿勢を...
伝わらない文章って自己中心的だよな。 ヨウジヤマモトさんは天才だから構わないが、僕みたいな凡人は、発話したり他人に見せるために書きつけた時点で、分かりやすく伝える義務が生じると考えるべき。 もちろん読み手のリテラシー不足で伝わらないケースもあるとは思うが、常に他者に寄り添う姿勢を忘れてはいけない。
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インターネットを通じて多種多様なイメージを入手できる今の時代に、自分の装いをわざわざ一から手探りしている人は、おそらくほとんど居ないだろう。世の中にある大量のイメージの中から気に入ったものを選び、模倣する方がはるかにラクだからだ。 だが、ファッション、装うことの醍醐味とは、誰かが...
インターネットを通じて多種多様なイメージを入手できる今の時代に、自分の装いをわざわざ一から手探りしている人は、おそらくほとんど居ないだろう。世の中にある大量のイメージの中から気に入ったものを選び、模倣する方がはるかにラクだからだ。 だが、ファッション、装うことの醍醐味とは、誰かが創ったイメージをそのまま着てばかりいては永久に味わえない。イメージと自分自身の間に生ずる過不足に悶えることのできる者、装いと肌の距離を縮めようと探究し続けた者にしか辿り着けない領域が、確かに存在する。 イメージの模倣に慣れきっている現代人。私もその中の一人だ。服を創る者ではなく「着る者」として、お前は本当にこのままでいいのか、と心意気を炙られたような気がした。
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とあるnoteで、おおきなきっかけとなった本として紹介されて読んでみた。いまの自分には響かなかったけれど
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ここんところ、無難な服ばかり着ていたけど、ちょっと服を楽しんでみたくなってる。 そんな気持ちになったのは、この本を薦められて読んだ人のTweetに影響を受けたからだと思う。 正直、この本をあまり理解できてるとは思えないけど、いろんな服を見たくなってる。
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山本耀司について語った本。 筆者がインタビューした内容などを、写真とともに記載。 哲学者の筆者だからこそ、短いフレーズで、山本耀司のアーティスティックな感性を導き出している。 母子家庭で育った耀司にとって、女性とは強い母親の後ろ姿で、女性といえば、後ろ姿を重視するというところ...
山本耀司について語った本。 筆者がインタビューした内容などを、写真とともに記載。 哲学者の筆者だからこそ、短いフレーズで、山本耀司のアーティスティックな感性を導き出している。 母子家庭で育った耀司にとって、女性とは強い母親の後ろ姿で、女性といえば、後ろ姿を重視するというところに惹かれた。
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山本耀司のコレクションの図版が載ってるのがいい。 そこに鷲田清一の文章がちょろっと。 紙面の枚数が多くないのであまり深く踏み込むことはないが、 いつもの哲学的な身体論と絡めていて面白い。 『たかが服、されど服』というタイトルがまた本質的で良い。 「怒りと愛情。これは...
山本耀司のコレクションの図版が載ってるのがいい。 そこに鷲田清一の文章がちょろっと。 紙面の枚数が多くないのであまり深く踏み込むことはないが、 いつもの哲学的な身体論と絡めていて面白い。 『たかが服、されど服』というタイトルがまた本質的で良い。 「怒りと愛情。これは生きるための根源的なものです。人間が、ごくあたりまえにもっている美しい面から醜悪な面まで、悲しんだり、怒ったり、そうしたことをすべて通り越して、全部認めて、受け入れて、なおかつ愛せるかどうかが、人生の一番大きな問題であり、テーマでしょう。」―――山本耀司
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ある本で、筆箱が立って歩いているようなのがいい、という山本耀司の言葉を著者が紹介しているのを読んでこの本を手に取った。 これまでファッションにはほとんど興味はなかったが、こういう風に解説されると面白い。山本耀司の服、好きかも。
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本書は、2002年にイタリアの出版社CARLA SOZZANI EDITORE srl から刊行された山本耀司の作品集『TALKING TO MYSELF BY YOHJI YAMAMOTO』のために書き下ろされた著者の文章に、若干の加筆・修正を施したものです。(巻末より) ...
本書は、2002年にイタリアの出版社CARLA SOZZANI EDITORE srl から刊行された山本耀司の作品集『TALKING TO MYSELF BY YOHJI YAMAMOTO』のために書き下ろされた著者の文章に、若干の加筆・修正を施したものです。(巻末より) 上記のようにこのハードカバーは、1981AW-2002AWまでのコレクション写真118点がほぼ時系列順に登場し、その合間合間に問いかけと応答のように著者のモノローグが差し挟まれている。挿絵付き詩集の感覚でリズミカルにするすると読める。そして味わい深い。 モード界への、身体への、性へのアプローチ。しかし各論ではなく、ゆるやかに重なり合う。かような文章とグラフィティの一体感を損なわぬように、また論稿自体は『モードの迷宮('89)』『悲鳴をあげる身体('98)』等で既出のものも含まれているため、とりわけ印象的なテクストの引用程度に留めたい。 <いま>という瞬間を、山本はしばしば刹那と表現するが、そういう気分で、壊れゆくもの、消えゆくものとして、いまにふれているのだろう。言ってみれば、山本は後ろ向きに未来のほうを向いている。(p27) いたるところに道が見える以上、破壊的性格じたいは、つねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるかわからないのだ。破壊的性格は、既成のものを瓦礫にかえてしまう。しかし、それは瓦礫そのもののためではない。その瓦礫のなかをぬう未知のためなのである。(p45, W・ベンヤミン「破壊的性格」高原宏平訳より) そんな山本が最初にとりかかったのは、からだの線を強調して女らしさを見せるのではなく、男性用テーラードの構成を解体して、ぶかぶかの形もはっきりしないシルエットと「性の制服」としては非常識ともいえるカッティングで、女性的なるもののかたちを表現することであった。ひとがたまたま手にしたもの(このばあいなら性)、それを防具として生きるというのは、ひとの「プライド」に反する。なんの格闘もなしに、偶然に手にしたものでみずからを売りに出すというのは貧しさの極みである。女性的なものへのこの想いに、山本はきっとデザイナーとしてのじぶんを重ねていたのだろう。東京に生まれたことはじぶんの功績でもなんでもない……。山本はパリ・デビューに際しても、「ジャポネ」を売りに出すことだけはしまいとおもった。(p67) 過ぎていくもの、通りすぎていくものに対する追いすがるような想い、しかし追いつくことをあらかじめじぶんに禁ずる意地。山本は、横から、あるいは斜め後ろから見た女性の背中に魅きつけられると言っていた。背中という、女性の支柱の凛とした美しさへの憧れと畏怖、それが山本の女性服を織りなしている。(p91) わたし自身、ここ十数年来、ほとんどヨウジヤマモトの服ばかり着ている。そいてこれまで一着たりとも処分したことはない。もちがいいし、それに着方をすこし変えるだけで<現在>(ici-maintenant)の服になる。それは、わたしを「わたしよりももっと古いわたしの存在」(メルロ=ポンティ)にふれさせる服だからだとおもう。そしてその服を着るとふっとどこかを徘徊したくなる。山本の服は、わたしにとって<可能>がまだ<可能>のままであったような次元にまで誘ってくる服であるらしい。つまるところ、いかがわしい服、すれすれの服とは、わたしを「私が生まれたよりももつと遠いところ、そこではまだ可能が可能のままであったところ」(九鬼周造)にまで連れていってくれる服、<自由の服>のことなのだ。(p123)
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一番印象に残ったのは引用されている山本耀司の言葉でも、鷲田清一のYYに対する考察でもなく、「YYのメンズ服を恰好よく着こなせる男性像」の部分 「いい歳をして、すねもの、ふてくされ、つっぱりといった、とにかくおさまりが悪い生き方しかできないのに、不思議にかわいげがあって、そのふて...
一番印象に残ったのは引用されている山本耀司の言葉でも、鷲田清一のYYに対する考察でもなく、「YYのメンズ服を恰好よく着こなせる男性像」の部分 「いい歳をして、すねもの、ふてくされ、つっぱりといった、とにかくおさまりが悪い生き方しかできないのに、不思議にかわいげがあって、そのふてぶてしい不良性のすきまから意外にもシャイで奥深い品位が漂ってくる」 この文章、ブランキージェットシティーの3人そのままじゃないか それもそのはずデビューしたてのブランキーはパリコレにYYのコレクションモデルとして登場したのだから(この頃の映像なり画像なりを検索しても出てこないのが本当にもったいない) ここまでブランキーを言葉で表せている文章、音楽雑誌でも見たことない 山本耀司の服に興味を持ったきっかけは北野武の映画「BROTHER」 明らかにサイズオーバーのスーツのポッケに手を突っ込みチンピラ相手に息巻く寺島進 それまで、服というのはサイズがピッタリ合っていなければカッコよく着こなせないと思い込んでいた スリムなスーツを着るより断然カッコイイ 驚いた 暴力だけで生き延びてきた無骨な男の芯が見える 肩書きや学歴に頼らず、文字通り自分の骨と肉だけで生きてきた男の芯が際立つ服 映画「Dolls」のインタビューで菅野美穂は「山本耀司さんの衣装を着ると、そのシーンにピタッとハマるんです、パズルのピースみたいに」と言っていた あのスーツによって寺島演じる加藤の人物像が、ギリギリで生きている野蛮性を増したのは間違いない そして加藤から漂う、もはや獣なのではないかと思うほどの怒気が「BROTHER」の暴力性を押し上げたのだ 衣装でそんな凄いことができるのか。 映画を楽しむ要素が一つ増えた
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モードとは何か。 モードは、何かが終わり、別の何かが始まる分水嶺として<いま>をきわだたせる。しかし、モードのなかで、ひとは<いま>を<いま>として生きているように見えて、一貫して<いま>からそらされている。これはモードが<いま>からの時の重なりを禁じるからだ。 そしてモードは、...
モードとは何か。 モードは、何かが終わり、別の何かが始まる分水嶺として<いま>をきわだたせる。しかし、モードのなかで、ひとは<いま>を<いま>として生きているように見えて、一貫して<いま>からそらされている。これはモードが<いま>からの時の重なりを禁じるからだ。 そしてモードは、この世にじつは決定的なものは何もないという白んだ事実をむき出しにする。 筆者は、山本がそんなモードから服を奪回することを志向してきたと指摘する。
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