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「史記」再説 の商品レビュー

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2017/04/05

司馬遷について、勝手な思い込みがいくつもあったことに気づかされた。 最大のものは、代々史官の家系で、若い時から史記を編纂するべく生活していたということ。 ところが、本書によれば、司馬氏は武官の家柄で、文官になったのは遷から六代前に過ぎず、「太史公」になったのは父の司馬談であると...

司馬遷について、勝手な思い込みがいくつもあったことに気づかされた。 最大のものは、代々史官の家系で、若い時から史記を編纂するべく生活していたということ。 ところが、本書によれば、司馬氏は武官の家柄で、文官になったのは遷から六代前に過ぎず、「太史公」になったのは父の司馬談であるという。 太史公は武帝が初めて置いた官職であるから、世襲も何もない状況だったようだ。 本務は天文や祭祀を司ることであったという。 父、談は太史丞、太史令と昇進してきた、たたき上げの人。 息子の遷は二十三歳で「郎中」という近習の役職になるも、十三年後の父の死まで、その官にとどまり続け、昇進していないとは。 また、本書によれば、『史記』は、父談の始めた、あくまでも私的なプロジェクトだった。 これも、武帝の命なり、職掌としてなりで始めたことだと思い込んでいたことだ。 父が志半ばで病死し、その遺言で父の仕事を引き継いだ遷は、それから三年して太史公となったという。 加地さんによれば、父にはまだ黄老思想(神仙術と老子の思想が混ざったもの)が影響し、息子は師匠が董仲舒であったこともあり、儒教思想であり、また天人相関説がバックボーンにある、と解説されていた。 それが「八書」の構成に影響しているのでもあるとのこと。 李陵事件は、やはりよくわからないことが多いらしい。 加地さんは「平準書」という、国家財政を扱った部分の存在から、李陵擁護は武帝の対外強硬政策を批判であり、それが武帝の逆鱗に触れたのだと考えている。 そこで宮刑(贖罪金を払うことができなかった)に処せられた時、失職しただろうとのこと。 意外なのは、その二年後、改元による大赦で再び武帝に召され、中書令(宦官である秘書官)という、遷のために作った地位を与えられたこと。 しかし、それもまた、歴史を記すのが本務ではないのだ。 当時の政治的な布置、思想史の流れ、孝の思想など、司馬遷を描く背景が与えられた感じがする。 そうして、ほんの僅か、知ったことが増えると、分からないことがたくさん出てくる。 最後に武田泰淳の『司馬遷』をめぐる加地さんの批判、援護者への再批判の文章も収録されていた。 それから更に時が流れたことになる。 その後の史記研究で、どんなことが明らかになっただろう?

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2012/11/17

目次: はじめに 第一章 歴史家・司馬遷の誕生  1――青春放浪  2――司馬遷の系譜と生い立ちと  3――放浪以後の司馬遷  4――道家思想と儒家思想と 第二章 『史記』の時代――呪術と迷信とのなかで  1――漢代の呪術と迷信と  2――武帝の性格  3――司馬遷の武帝像  4...

目次: はじめに 第一章 歴史家・司馬遷の誕生  1――青春放浪  2――司馬遷の系譜と生い立ちと  3――放浪以後の司馬遷  4――道家思想と儒家思想と 第二章 『史記』の時代――呪術と迷信とのなかで  1――漢代の呪術と迷信と  2――武帝の性格  3――司馬遷の武帝像  4――天人相関説  5――司馬遷の世界観 第三章 『史記』完成への道  1――李陵事件  2――腐 刑  3――不孝者の意識 第四章 司馬遷の世界  1――去勢コンプレックス  2――『史記』の構成とその意味と  3――論賛の成立  4――自画像 おわりに 別 表 あとがき 付論――「後記」に代えて  (一)武田泰淳の虚像  (二)再説「武田泰淳の虚像」―石上玄一郎氏に答う  (三)「武田泰淳の虚像と実像」について

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