感染症は実在しない の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
① 病気の定義の恣意性 表題の「実在しない」というのはある種の本を手に取らせる方法という感じで、本当に筆者がいいたいのは「ほとんどの病気の定義は恣意的であって、定義が恣意性から離れて実在すると考えるのは間違いである」ということである。恣意的でないとする人が挙げる根拠として①患者自身の自覚②菌の存在という点について筆者は反論を試みている。まず患者自身の認識という点については筆者は筆者自身が香港で診断した白人男性を反例として挙げている。彼は検査する前には体に不調はないといいつつ、検査すると結核にかかっていることがわかった。そして筆者が治療薬を出すと、検査以前も体調に問題はないと言っていたにも関わらず体調が前よりもよくなったと言う。彼のように症状が自覚的でない場合はままある。また病原菌の実在=病気の実在と考えるのも誤っている。結核の保菌者は全世界の人口の三分の一であるが、ほとんどが症状としては現れず彼らを結核患者とは言わない。保菌者とは病原菌を体に持っていても、病気ではなくしたがってその人は病気とは言えないのである。あるいはウイルスについても同様で、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)を体内にもっていてもそれそのものが病気なのではなく、特定の症状があらわれてはじめて病気と診断される。 一方では結核菌を体内に持っているだけで潜在結核という「病気」として呼ぼうという動きもあり(したがって全人類の三分の一は「病気」)、これも病気の定義の恣意性を示しているといえる。 このような恣意的な定義の最たるものがメタボリックシンドロームであり、これは肥満傾向にある国民の健康の振興という明確な人の意図をもってして生まれたものだ。他には不妊症(「婚姻生活を二年以上営んで子供が出来ない」という定義)も恣意性が高いものの一つだ。 ② 検査と治療の恣意性 こうした病気の恣意性に対して意識的でないため「検査で陽性→薬の処方」という傾向が日本には根強い。どのくらい効くか・どのくらいその病気である可能性があるかという程度の問題が曖昧になっているのである。日本のカルテでは検査の際に「○○病除外」というように病気の可能性の否定を羅列していく。一方アメリカのカルテでは六段階の可能性にもとづいて病気の可能性を診断し記載するとう形式が一般的である。 また医者以上に患者の側はどのくらいという程度の問題について無意識である。治療の効果にはNNTという「ある医療を提供して一人の利益を得るために何人治療しなくてはならないか」を示す指標が用いられる。しかし実際にNNTが2以下という薬は少ないことは知られていない。 ③ 価値交換としての医療 ではこうした「病気があるから治療しなくてはならない」という態度の否定としてどのような姿勢があるのだろうか。筆者は価値交換としての医療を唱えている。長生きに絶対的なフェティシズムを見出すのではなく、治療されたいと考えるような価値観が存在する時のみ治療というサービスを提供する。この価値観はリスクを考慮して決定されるものである。例えば痛風の人が1年に一回くらい発症するリスクがあったとしてもたまにはビールを飲みたいという価値観を持っていたとする。しかし大抵の医者はビールなんて論外だと彼に言うだろう。ただこの場合の医者はなぜ治療するのかという点に無自覚で、「痛風という病気があるから治療する」という態度をとっているといえるだろう。 この価値交換を阻む要因は医者だけではない。例えばフラジールという抗生物質は脳に副作用をおよぼしたりけいれんを引き起こすことがある。アメリカの説明文書ではフラジールを処方して患者がけいれんを引き起こしたらすぐに処方をやめるように書かれている。一方残念ながら日本の説明書ではもともと脳に異常のある人はフラジールを処方してはならないと書かれている。もともと脳に異常にあるひとが必ずしもけいれんを起こすわけではない。日本の場合は、効果とリスクを見極めたうえで、患者の価値観を参照し、価値と医療行為の交換を行うという本来の手順を不可能にしている。 ① の概念はうつ病などの精神疾患にあてはめるとかなり面白い概念ではないだろうかと思った。最近自分はうつ病だと主張したがるひとが増えているという指摘がなされているがそういった人に③のような考えかたに基づき対処するのは、やみくもに抗うつ薬を処方するという現代の状態から抜け出しために必要な考えかたであると感じた。
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前半は病気を哲学的に思考し、「病気とは何か」を再評価する。中盤から、新型インフルエンザを中心に、タミフル問題や予防接種について岩田医師の考えを述べる。後半は医療職者だけでなく、患者側にも医療について理解を求める内容。 個人的に、国の政策や予防接種に反対する人達に誤解され、元気付け...
前半は病気を哲学的に思考し、「病気とは何か」を再評価する。中盤から、新型インフルエンザを中心に、タミフル問題や予防接種について岩田医師の考えを述べる。後半は医療職者だけでなく、患者側にも医療について理解を求める内容。 個人的に、国の政策や予防接種に反対する人達に誤解され、元気付けてしまいそうな表現方法であることと、インフルエンザなどに対する民間療法についてのページがほとんどなかったことが残念だった。特定健診に関しては、見方によっては岩田医師の間違いの様にも思える。
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感染症をきっかけに、医療全般について、構造構成主義観点から解説した本。 こういう視点も持ち合わせた医師はいったいどれくらいいるのだろうか。医師のみならず、医療にかかわる医療従事者、製薬会社や医療機器メーカーといった人々にも、大いに欠落した視点のような。 医療の現場では、ゴール...
感染症をきっかけに、医療全般について、構造構成主義観点から解説した本。 こういう視点も持ち合わせた医師はいったいどれくらいいるのだろうか。医師のみならず、医療にかかわる医療従事者、製薬会社や医療機器メーカーといった人々にも、大いに欠落した視点のような。 医療の現場では、ゴールデンスタンダード、ガイドラインといった、なんらかの「よりどころ」をもとにした医療が盛んになっているけれど、その「よりどころ」は本当に「よりどころ」となりうるものなのか、「よりどころ」の「よりどころ」になる論文は、どの程度の価値があるものなのか。。。様々な悩ましい問題があるなか、医療マーケティングの視点から、物事を見直すきっかけになりそうです。 医療とは価値観の交換である、というくだりは、目からうろこ。
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タイトルに惹かれたんだけど、中身が予想以上に骨があってよかった。 物凄くフックのあるタイトルだけど、その意味は、 ①病気を100%診断することは不可能 ②ある症状が出たらこの病気、という規定は恣意的 なので、ある病気の人と、そうではない人を客観的・明確に分けることは不可能。 と...
タイトルに惹かれたんだけど、中身が予想以上に骨があってよかった。 物凄くフックのあるタイトルだけど、その意味は、 ①病気を100%診断することは不可能 ②ある症状が出たらこの病気、という規定は恣意的 なので、ある病気の人と、そうではない人を客観的・明確に分けることは不可能。 ということ。 これを、症状という「現象」は存在するけど、病気という「実体」が存在するわけではない、という言葉で語ってます。 それを前提にして、もっと「程度」を問題にしていこう、「病気だからいくない」ではなく、ある価値観に照らし合わせてこの症状は認められないから治療すべき、といった目的を大事にした考え方へのシフトを提起。 たとえば、「メタボ」という病気のように言われているものであっても、腹囲何cm以上というのも、恣意的であって、ある基準の腹囲以上が、「メタボ」という実体のある病気と対応するべきではない。 だから、「何cm以上の人は即刻痩せなさい」という主張は、客観性を欠いた、押しつけがましいもの。 むしろ、10年後の生存率がどう変わるとか、どんな悪影響が出るとか、そちらを精査して、個々人の価値観と照らし合わせてダイエットするかなどを判断するべきである。 医療の内容も具体的で楽しいけれど、「構造構成主義」という考え方の実例としても、非常に楽しく読めた。 現象が現象に過ぎず、それを実体があるように語るのは、恣意的だとか、 物事は目的に沿ってとらえなおしていかなければならないとか、 そもそも人間は自分の関心に沿ってしか考えられないのだからそれを自覚するべきだとか、 そういうマインドセットの面で、非常に勉強になった。 これだけ濃い内容なのに、語り口があくまで一般的で読みやすいのがすごい。 相当頭が良いと思う、この著者。
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概念から書いてあります。検診に対して、臨床試験に対して、論文に対して、予防接種に対して理論的に解説してあります。理論論文研鑽会って何やろ。んで、大規模臨床試験でさえ、やっと差が出るような効果しかない薬の話、「総死亡率を減らさないと意味がない」と言う近藤誠先生方への意見、脳死、安楽...
概念から書いてあります。検診に対して、臨床試験に対して、論文に対して、予防接種に対して理論的に解説してあります。理論論文研鑽会って何やろ。んで、大規模臨床試験でさえ、やっと差が出るような効果しかない薬の話、「総死亡率を減らさないと意味がない」と言う近藤誠先生方への意見、脳死、安楽死…などなど感染症以外に関しても必読な内容が満載です。
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