王朝百首 の商品レビュー
「私はこの王朝百首を、異論を承知の上で、あくまで現代人の眼で選び、鑑賞した。權威の座を數世紀にわたって獨占した趣の百人一首にことごとく反撥を示した。私の擇びこそ、古歌の真の美しさを傳へるものと信じての試みに他ならぬ。單に晩年の定家の信條に對する彈劾の志ばかりではない。資質、才能、...
「私はこの王朝百首を、異論を承知の上で、あくまで現代人の眼で選び、鑑賞した。權威の座を數世紀にわたって獨占した趣の百人一首にことごとく反撥を示した。私の擇びこそ、古歌の真の美しさを傳へるものと信じての試みに他ならぬ。單に晩年の定家の信條に對する彈劾の志ばかりではない。資質、才能、業績にふさはしからぬ作品を以て代表作と誤認されてしまった各歌人の復權、雪辱の意も多分に含めたつもりである。 さらに言へばこの百首は譯も解説も蛇足であり、任意の時、任意の作品を、自由に吟誦して楽しむのが最上の鑑賞である。難解な用語は、もし必要とならば古語辭典一冊を座右に置けばおのづから解けよう。さうして、歌自體のうつくしさに陶然とすることのできる讀者には、もはや作者名さへ無用である。 」 「百首の選擇に臨んでの配慮に今一言を加へるなら、私の不如意は、あるいは口惜しさは、讀人知らずの作を加へ得なかったことである。 古今集は作者不詳の戀歌を除いては甚しくその價値を減じるだらう。もし王朝に奈良朝を加へたとするなら、萬葉はこの場合どうなつたらう。歌は作者名によつてその美を左右されることは決してない。作者名によつて陰影を深め、あるいは享受者の第二義的な欲求を満たすことはあらうとも、それ以上の 何かを附加し得ると考へるのは幻覺に過ぎまい。私達は今日まで、いかに作者名に惑はされてその作品を受取って来たことか。これは單にこの王朝和歌に限ることではないのだ。 作者名も註譯もすべて虚妄であらう。眞にすぐれた作品はそれらを拒み、無視して聳え立つものである。逆に言へば、その絶唱、秀吟は、おのづから作者の、唯一人の小宇宙の中に浮び、その背後には彼を生かしめた時間と空間が透いて見えるはずである。詩歌にそれ以上のいかなる要素を求めようといふのか。 私がこの後選ぶとならば、記紀から現代に到るあらゆる詩歌の中からのみづから發光することによって享受者を誘ふ無名の、あるいは名を消し去った、日本人の魂の糧ともなるべき詞華一千であらう。」
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歯に絹着せぬ、百人一首批判が面白かった。評者選出のほうが好ましくおもったり、元のほうが良いと思ったり。そこに時代の流れ、感性の違い、個人の違いが立ち現れておもしろい。和歌を身近に感じさせてくれる評者の本音は一見の価値あり。
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最早執念の百人一首批判を除けば面白かった。好きな和歌を沢山発掘出来た。俊成卿女と躬恒と源順の歌が好み。
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塚本邦雄を知ったのは、寺山修司がすきだったからだ。彼の芸術に対する考え方には共感できるし、定家百首やこの王朝百首に見る感性もまたすばらしく、昔のうた、今のうたを読むにしろ、彼に付き従っていきたくなる。日本語はやはり美しいと実感させられる一冊。
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