リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ の商品レビュー
『無口な女』見たことないから読めない。youtubeにあるかなあ。DVDはないよな。→ youtubeにあるから見てから読もう。
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人生の苦悩をあたかも人類の苦悩のように一身に担い、超越的世界からの霊感を得て深遠なる芸術を作り上げる。そういった天才のイメージはベートーヴェンからヴァーグナー、そしてマーラーまでを覆っている。ところが、そのマーラーとほとんど同い年で、同様に指揮者としても大活躍したリヒャルト・シ...
人生の苦悩をあたかも人類の苦悩のように一身に担い、超越的世界からの霊感を得て深遠なる芸術を作り上げる。そういった天才のイメージはベートーヴェンからヴァーグナー、そしてマーラーまでを覆っている。ところが、そのマーラーとほとんど同い年で、同様に指揮者としても大活躍したリヒャルト・シュトラウスはこうした天才のイメージをするりとかわしてしまう。というか、俗物にして悪趣味、作品はスペクタキュラーだが表面的といった悪名は天才の表象を裏切るほかない。しかしその作品は現代のコンサートとオペラになくてはならない人気を誇る。 マーラーの第6交響曲の終楽章で3回(最終稿では2回)振り下ろされるハンマーを作曲者は「英雄は3度打ち倒される」と説明するが、この英雄とは結局マーラー自身のことだと誰もが思う。悲劇の英雄。かたやシュトラウスは言うに事欠いて《英雄の生涯》などという曲を書くが、この英雄も作曲者自身。しかし批評家と戦って、家族と団欒し、引退して過去を回想したりしている英雄だ。同じく自己英雄化でも、マーラーは天才の意匠を上手に掲げるのに、シュトラウスは赤裸々で陳腐な姿を描いて、通俗的・悪趣味と批判される。 そんなシュトラウスは長生きして、遂にはナチスに相まみえ、ナチス協力者の汚名を着る。しかしそれは音楽家たちを守るためで、ナチス時代、彼はしきりと喜劇オペラを書いて世相を変えようと志したのだというのが山田由美子著『第三帝国のR.シュトラウス』。 本書はまさにこのナチス時代、ユダヤ人ツヴァイクの台本で喜劇《無口な女》を上演しようとするシュトラウスを最新の研究を駆使して描く。長年の台本製作者ホフマンスタール亡き後、理想の共同作業者ツヴァイクを見出すが、相前後して、ナチスが台頭する。ドイツ帝国、そしてワイマール共和国をいなしてきた老シュトラウスは、ナチス政権をも乗りこなせると思った節がある。結局、ユダヤの血を引く嫁を守るため、戦中は苦汁をなめ、戦後は彼のドイツが廃墟と化したのを眺めながら《メタモルフォーゼン》を書いて死んでいく。 しかし本書の扱うのは歌劇《無口な女》。前半はツヴァイクとの共同作業と立ちこめるナチスの暗雲など歴史的ドキュメント。後半は作品分析。 キーワードは「自画像」である。彼は自分の身近なところから発想を得たときに最大の力を発揮する作曲家だったとロマン・ロランも指摘しているという。例えば《英雄の生涯》であるなら、これは世間でいわれるように自分を英雄にしたというより、英雄を描くにも自分の身のまわりから発想せざるを得なかったということなのだ。自画像画家や私小説作家はいても、自画像作曲家という形容は一般的でない。が、結局のところどんな霊感も自分の中以外からは出てこようはずもない。とすれば、シュトラウスは自己に没入することなく、冷徹に自己観察していた人だったといえるのかもしれない。しかしその音楽の甘美なこと。 作曲家像にある修正を迫るものであるとともに、多様な思考へと誘う好著である。
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