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読んでいない本について堂々と語る方法 の商品レビュー

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111件のお客様レビュー

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2014/05/11

いわゆるハウツー本の印象を受けますが、敷居が低そうで手に取りやすい素敵なタイトルだと思います。 世間一般において、日常会話で自分の知らない本の話が出てくると、なんだか居心地が悪いような気がしてくる。 意見を求められたらどうしよう。感想を聞かれても答えられない。読んだこともない本...

いわゆるハウツー本の印象を受けますが、敷居が低そうで手に取りやすい素敵なタイトルだと思います。 世間一般において、日常会話で自分の知らない本の話が出てくると、なんだか居心地が悪いような気がしてくる。 意見を求められたらどうしよう。感想を聞かれても答えられない。読んだこともない本の内容について誰かと話をするなんて、未読がばれたらと冷や汗が出るばかりだ。ありえない。 大学教師である著者は、自身の知らない書籍について意見やコメントを求められることが多い。 読んでいない本について語ることがなぜ悪いのだろうか。 本を読む行為の裏に潜む暗黙のルールに一石を投じ、読書の常識を覆す話題作が今ここに。 本を手に取ったその瞬間に考えていた何倍も論理的に、未読の本に対する批評を肯定していて驚きました。 この世界には数多の書籍が存在しており、普通の人間にはそのすべてを読むことなど絶対に不可能である。 「本を読んだ⇔読んでいない」の程度には幅があり、また仮に読んだとしても記憶しておける容量には限度がある。 もっと言えば、本に対する感想・意見など人の数だけ数多あり、同じ本であっても他人とまったく同一の認識を共有することなど不可能なのだ。 著者は、社会的に蔓延している読書の決まりごとに縛られるのではなく、能動的・創造的に書籍について語ることを強く支持しています。 文中では、極端な例として、本なんか読まなくていいんだよ!という過激な意見を取り上げる場面もあり、正直腑に落ちませんでした(本の存在が不要、と言われているようで思わずむっとしてしまいました)。 しかし、書籍に関する意見を述べる上で読書は障害ではない、そんな幻想に縛られてはならない、という全体を通しての意見は、書籍に対しての敬意と読み手へのやさしさそのものを表しているように思えます。 そうはいっても、広範な知識の下地なしに、またはその本へのとっかかりの情報なしに、読んでいない書物の批評をするのは難しいでしょうね…。 自分が楽しく読める本を、気の向いたときにストレスフリーな読み方で読んで、好き勝手言うのが一番ではないでしょうか。 余談ですが、本書内に著者は非常に皮肉の利いた人であるとわかるくだりがあります。読み進めていくと思わずにやりとしますよ。

Posted byブクログ

2014/04/27

昔から、人は読んでいない本について堂々と語っていた! この行為のゴールとして「自分自身について語ること」と著者はいう。なるほどそういうことか。あふれる本を横目に 自分を探求してみよう。

Posted byブクログ

2014/01/23

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』内で、ウンベルト・エーコが話題に出した本。 インパクトのあるタイトルが忘れられず、気になったので読んでみました。 mixiの「観てない映画を語る」という、まだ観ていない映画の話を、さも観てきたようにするコミュニティに入っている私。 それと...

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』内で、ウンベルト・エーコが話題に出した本。 インパクトのあるタイトルが忘れられず、気になったので読んでみました。 mixiの「観てない映画を語る」という、まだ観ていない映画の話を、さも観てきたようにするコミュニティに入っている私。 それと同じような切り口なのでしょうか。 読んでみると、全く違いました。 著者は精神分析家なので、かなり細かく持論を展開しています。 自分なりの論説を立て、それに則った解説を広げているため、しっかりと構築された文章になっています。 もっと気が抜けた脱力系の本かとおもいきや、れっきとした論文。 フランス語独特の翻訳文章となっており、慣れない人には読みづらいのではないかと思います。 パリ第八大学のフランス文学教授でもある著者が、こうした本を出すのは驚きで、文学者といったらどうしても本の虫だというイメージから抜けだせませんが、そうしたステレオタイプを鮮やかに飛び越える力を持つ本書。 かなり突飛な持論であるため、さまざまな説明が必要となり、結果多少のこじつけ感や強引さも生じています。 ただ著者が伝えたいことは、その書物の「位置関係」がわかれば、最初から最後まで読む必要はない、ということ。 例えば著者は、ジョイスの『ユリシーズ』を読んだことも読むつもりもなく、当然内容は知らないながらも、『オデュッセイア』の焼き直しであること、意識の流れという手法を用いていること、物語がダブリンでの一日を記したものであることといっ た位置関係を知っているため、大学の講義でも良くジョイスに言及しているとのこと。 「文学の話題は次から次へと流れ行くものだ」と話します。 確かに概論を語る上ではこれで問題なさそうですし、同じようにしている専門家も大勢いることでしょう。 私としては、いろいろと書物の周辺情報をおさえ、位置関係を知るということは、内容を読むのに匹敵する手間と時間がかかると思われるため、この案が特に革命的なものだとは思いませんが、それでもどうしても苦手なたぐいの書物はあります。 そうした本でも語らねばならない人にとっては、必要な対処法なのかもしれません。 著者は「結局本を読んだところで、記憶に残る箇所は曖昧で、しかも人によって異なる」と指摘します。 「読むということは、情報を得る一方で忘れることでもあり、そちらの方が大きいかもしれない」とも。 たしかにその通りですが、だからこそ再読の楽しみもあるわけで、本を読まない理由にはならないように思えます。 ただ、著者の言わんとする「端から端までくまなくテクストを読み込むことを良しとする世間の風潮はナンセンス」という意見には納得できます。 要は、本とその時の自分との関係性で、方法はともあれ自分に引き寄せられるかが大切だということです。 結局、読んでいない本について語ることは、周辺情報の知識がないと無理そう。 ただ、この本が世界的ベストセラーとなったことを考えると、人々がどれだけ本を読みたい(読まなくては)と思っているかがわかります。 著者は決して「本を読むな」と言っているわけでも、書物を否定しているわけでもありません。 「読まずして語る」ことで、逆説的に「関連情報の教養を身につけておく」ことの大切さを説いていると感じました。 文学者がこういった本を出すというのがおもしろいところ。 エーコの『薔薇の名前』やグリーンの『第三の男』のストーリーが紹介されていますが、意図的に多少違う内容を書いています。 そこに、既読の読者が気づくか気づかないかという、著者の遊び心が見えます。 私の知る文学教授で、未読書を既読と言うような虚勢を張る人はいませんが、アカデミックな文学の国フランスでは、専門分野の名著を未読とはとても言えない書物至上主義があるのかもしれません。 原題が「Comment parler des livres que l'on n'a pas lus?」で、邦題にある「堂々と」のニュアンスがなかったこと。 この「堂々と」がタイトルにあることで読もうという気になったため、残念でした。 内容的には邦題のとおりに堂々としてはいますが、かなり綿密な論説となっているため、もっと開き直りのような、パンチの効いた勢いがあれば、驚きながらもなお惹きつけられたことでしょう。 ちなみにこの本は、きちんと読まないと堂々と語れません。なんというパラドックス!

Posted byブクログ

2014/01/08
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読書法のポストモダン。 「他者は知っていると考える習慣を断ち切ることは-この場合<他者>とは自分自身のことでもあるが、-書物について、それを読んでいるいないにかかわらず、よい条件のもとで語るための最重要の条件の一つである。(略)しかし<他者>の知を前にしたこの不安は、とりわけ書物にまつわる創造の妨げとなっている。<他者>は読んでいる、だから自分より多くのことを知っている、と考えることで、せっかくの創造の契機であったものが、未読者がすがる窮余の策に堕してしまうのである。」

Posted byブクログ

2013/12/26
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『読んでいない本について堂々と語る方法』 ピエール・バイヤール 大浦康介 ★まず目次を書きたいと思う。 序 I.未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって……) 1.ぜんぜん読んだことのない本 2.ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本 3.人から聞いたことがある本 4.読んだことはあるが忘れてしまった本 II.どんな状況でコメントするのか 1.大勢の人の前で 2.教師の面前で 3.作家を前にして 4.愛する人の前で III.心がまえ 1.気後れしない 2.自分の考えを押しつける 3.本をでっち上げる 4.自分自身について語る 結び ★アメリカでは大評判だったらしい。もちろん、「読んでいない本に対して意見」が言える様になるではなく、 「読んでいない本に対する意見」に対する意見を述べるようになれるというところか。だから読書術の様なものではないので注意。  第一は、読書義務とでも呼ぶべき規範である。われわれはいまだ読書が神聖なものと見なされている社会に生きている。(こうした社会が滅びようとしていることも事実だが)。(p5) ★読書は神聖なものではない。それは肝に命じなければならない。 第二は、第一の規範、すなわち通読義務とでも呼ぶべき規範である。これによれば、本というものは始めから終わりまで全部読まなければならない。飛ばし読みや流し読みは、まったく読まないというのとほとんど同じくらいよくないことであり、とりわけそれを口外してはならない。(p5) ★通読の義務感はいつも読者を苦しめる。だから読書術では速読やフォーカス・リーディングなどが流行っているのだろう。 第三は、本について語ることに関する規範である。……私の経験によれば、読んだことのない本について面白い会話を交わすことはまったく可能である。(p6) ★この本を手にした読者を引き込む一文。 本書がめざしているのは、このやましさを部分的にせよ解決することである。(p7) ★「このやましさ」とは本について語るときについつ誰もがついてしまう嘘。その嘘について罪悪感を感じること。覚えがあるだろう。ここまでが序である。 どんなに熱心な読書家においても、ある本を手に取り、それを聞くということは、それとは別の本を手に取らず、開きもしないということど同時的である。(p19) ★なるほど。それは選択するということだ。 われわれは、本を読みはじめる瞬間から、いや読む前から、われわれのうちで、また他人とともに、本について語りはじめる。そしてそのあとわれわれが相手にするのは、現実の本ではなく、これらの言説や意見なのである。現実の本は遠くに追いやられ、永遠に仮定的なものとなるのだ。(p65) ★本について語るとき、すでに本からは遠く離れている。だから、その言説や意見を知っていれば語ることができる。本を読んでいなくとも。 読書は、何かを得ることであるよりむしろ失うことである。(p77) ★本を読んでも簡単に人は変われない。逆にその分時間を費やしている。よく考えなければならない。本を読んで何をしたいのか。 読んでいない本について著者自身の前でコメントしなければならない状況にある人間に与えられるアドバイスはただひとつ、とにかく褒めること、そして細部には立ち入らないこと、これである。(p126) ★教訓にしよう。 思えば読書とは、あやうい、とらえどころのない行為である。文字を目で追ってもひとつも頭に入らないこともあれば、一字一句が魂をゆさぶることもある。(p226) ★訳者あとがきより。確かにそうなのだ。良い文句。

Posted byブクログ

2013/12/14

その本について語るにはその本は読んでいない方がよい。本を読み、語ることについての意味の考察。 半年ほど前、「アブダクション―仮説と発見の論理」という本を知人に薦められた。「まことさんはきっとアブダクションという考え方に興味があると思うんですよね。この本、どうです?」と。 アブ...

その本について語るにはその本は読んでいない方がよい。本を読み、語ることについての意味の考察。 半年ほど前、「アブダクション―仮説と発見の論理」という本を知人に薦められた。「まことさんはきっとアブダクションという考え方に興味があると思うんですよね。この本、どうです?」と。 アブダクションは、演繹とも帰納とも異なる仮説検証型の推論の一種で、科学的な発見に関するプロセスともいえる。 読みにくい本で、読み終わるのに3ヶ月ほどかかってしまった。が、なるほど面白い本だった。 本の感想とお礼を彼に言ったところ、「そうでしたか。私はアマゾンの書評をみただけなんです。よかったですね。」と返された。10倍返しとは、こういうときの気持ちに使うものだ。私はそう思っている。 本書、「読んでいない本について堂々と語る方法」は興味深い本だ。読むという行為の意味、その本について語ることの意味についての考察が述べられている。タイトルにだまされてはいけない。いわゆるHow To本ではない。 しかし、この本の本当の面白さは別のところにある。著者の論理を丁寧に追っていってほしい。過度な一般化や微妙な論理の飛躍、すり替えがいたるところにちりばめられていることに気づくだろう。 ある俳句が凡庸であるかどうかは、使われる言葉を別の季節や言葉に置き換えたときにも成立してしまうかどうか、語彙の非可換性がどれほど高いかに依存する。本書は、巧妙にそして絶妙に、論理的に可換な一般論を、表層から隠蔽しながら巧みに展開している。 この本の面白さは推理小説のそれである。犯人は著者であり、探偵は読者である。一流のエンターテーメントが楽しめる。 そして、極めてお得なことに、その飛躍のロジックはとても模倣可能性が高く、応用しやすい。だから、今日からは「読んでいない本」について堂々と語ろう。

Posted byブクログ

2013/12/04

未読読書論。 もちろんこの本もタイトルだけで「どうせ◯◯みたいな感じのことを書いてる本なんでしょ」と言われたところで返す言葉はない。 が、読んで損はない一冊。

Posted byブクログ

2013/10/27
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

ブクログに登録している人であるかぎり、本好きでしょうし、「読んでいない本についてエラそうに語るなんて言語道断だ!」と思う方もいらっしゃるかも。しかし、同時にいつ果てることもない読書に疲れ果て、一体何のために読書をしているのだろうと自問したこともあるのではないでしょうか?かくいう僕も、読んだ端から本の内容を忘れてしまい、備忘録もかねてブクログを書きはじめた経緯があります。 日本では読書は良き習慣として励行されることが多いですが、海外でもやはり事情は変わらないよう。そんな神聖視されがちな読書規範に対し、一石を投じる挑発的な一冊。 内容はというと、奇を衒ったアンチ読書論かと思えばさにあらず、むしろまっとうな教養論です。 この本によると、教養というのは本と本との関係を知りつつ、自己を方向づけることができることで、本を読む必要はありません。そのためには精読していなくても、目録を読んだり、人からその本についての意見を聞いたり、あるいは流し読みすることが役立ちます。そこには、本への無関心ではなく、むしろ「全体の見晴らし」への能動的な関心が不可欠であることを著者は指摘します。一方、一冊の本を精読することに拘泥していれば、いつまでたっても全体性の把握にいたることはできません。 今までの教育で叩き込まれてきたせいか、つい僕も原理主義的に、『書物に何と書かれているか』が重要だと考えがちになってしまいます。しかし、著者は、個人の創造性にこそもっとも重きを置いています。そして、「現実の書物」ではなく、自分の「内なる書物」にこそ耳を傾けるべきで、読んでいない本について語ることはみずからを創造的プロセスのただなかに置くことだという主張がなされます。 もちろん、この本の内容をすべて鵜呑みにしてしまえば、読書の喜びは得られなくなってしまうでしょう。しかし、読書はかならずしも有益なプロセスではなく、リスクをともなうと再認識もさせられました。なぜ自分は本を読もうとしているのかを問うキッカケを与えてくれる、目からウロコの刺激的な本でした。 それぞれのトピックに簡単な要約が書かれており、実はこの本そのものが通読しなくても堂々と語りやすい構成になってくれています。ある意味、読まずに語る方法を会得するための、第一歩の練習問題として最適かも。実際僕だって、パラパラめくってロクに通読せずレビューを書いているのかもしれませんよ(笑) 真相は…、内緒です。

Posted byブクログ

2015/03/18
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○本を読まずに済ませる手抜きのためのハウツー本、と見せかけてりっぱな読書論の本。著者は問いかけます。本を読むことってそんなに大切でしょうか。一見してただの目立ちたがり屋に見えるタイトルですが、じつはこの本の重要な問いかけになっているのです。 ○そもそも、「読んでいない本」「読んだ本」とはなんでしょう。たとえば、本とは、読めば読むほど頭のなかから消えてゆく恐怖に晒されるものです(今まで読んだ本を全て覚えているという人がいないとはいいませんが)。内容を覚えていない、それどころか”読んだことさえ忘れている”というような状況になってまで、「その本を読んだ」ということに意味があるのでしょうか。 ○そして、本について「語る」とはなんでしょう。人から聞いて本の全体をつかんだり、(その本の内容ではなく)その本についての情報を手に入れれば語ることはできます。それに、同じ本について語っていても、その感想が他人と一致するということはなかなかありません。むしろ全然違うことの方が多いです(本に対する理解、頭のなかの本の内容は人によってばらばら)。 ○ものすごく大ざっぱに内容をつまみ出しましたが、こうして明かされるのは、わたしたちがいかに「読むこと」自体に意味を見出しているのかということではないでしょうか。それはつまり、その本について語ることができても、読んだという事実がなければだめで、読んでいないことは許されないという価値観があるということです。そして、著者はそれを真っ向から否定するようなタイトルをつけたわけです。とくに学問の世界、知識が求められる分野ではそうなのだろうと思います。しかし実は、読書とは自分にとっての創造的な行いの通過点であり、「読んでいない」ことに呵責を感じる必要もなければ「読まずに堂々と語る」ことさえできる・・・・・・そうです。 ○自分にとっての創造という視点から、著者はとんでもないことをしていることが、訳者によって最後に明かされるわけですが、これは著者の考えをはっきりと示す、お手本的な実践例ですね。 ○目次をぱっとみただけでも、愛する人に自分の知らない本を紹介するとか、いかがなものだろうかとちょっとツッコミを入れたくなるところがあって面白いです。力強い読書論(非読書論?)に触れて、本をみつめ直す良い機会になりました。

Posted byブクログ

2013/09/04

ヴァレリーやワイルドといった歴史に名を残す作家の言葉や、『薔薇の名前』『第三の男』『吾輩は猫である』といった名作小説を例にとって、読んでいない本とはどんな本か、そして読んでいない本について語る状況を分析。 タイトルでまたしてもロッジの『交換教授』を思い出したけど、やはりとりあげら...

ヴァレリーやワイルドといった歴史に名を残す作家の言葉や、『薔薇の名前』『第三の男』『吾輩は猫である』といった名作小説を例にとって、読んでいない本とはどんな本か、そして読んでいない本について語る状況を分析。 タイトルでまたしてもロッジの『交換教授』を思い出したけど、やはりとりあげられていた。 読んでいない本を「未読」「流し読み」「人から聞いた」「読んだけど忘れた」に分けて、評価までしているのがおかしい。(架空の本にさえ評価あり) でも、著者の「流し読み」は一般人の精読に近いです。多分「読んだ」の基準が非常に高いと思われます。 また、著者が若いうちにかなりの量の名著を精読したことは疑いを容れない。だからこそ読んでいなくてもわかるってもんです。 それをやっていない人は、時間がたてば忘却という海に浮かんだ小島のような記憶しか残らないとしても、やっぱり読むしかないと思う。 この本は内容も書き手も上級だから、それ以下の読者は実践しなくて大丈夫。下級の読者は通読できないと思いますので安心してください。 「内なる書物」や「共有図書館」といった概念がとても面白い。 訳者のあとがきに紹介された著者の他の本も面白そうだから、読んでみたい。

Posted byブクログ