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宇宙意識 神話的アプローチ の商品レビュー

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2016/11/19
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・偏見のない目で人類の宗教的伝統を振り返ってみますと、すぐさま、そのすべてに共通する一定の神話的モティーフが存在することに気づきます。たとえば死後の生とか、悪霊、守護霊といった観念がそうで、これらはそれぞれの伝統のなかでさまざまに理解され、多様な発展を示していますが、基本的には同じものです。医師にして世界旅行者であり、同時に前世紀を代表する民族学者であったアドルフ・バスティアンは、繰り返し現れるこうしたテーマやモティーフを「基本的観念」と呼び、そして、その地域的形態を「民族的観念と呼びました。 ・私の偉大な師匠で、同時に友人だったハインリヒ・ツィんまーは何年も前にこう言いました。「最上のことは語られえない。次善のことは誤解される」。 次善のことが誤解されるのは、それが語り得ないことの詩的な隠喩であるにもかかわらず、具体的な事実を指すものと散文的に誤読されるからです。 ・アーナンダ・クーマラスワーミーが指摘しているところでは、アメリカの多くの博物館の壁面や室内に列んでいる平凡な品々、地方の人物とか風景を描いた芸術作品は、インドではdesiya(地方的な、通俗な、田舎風の)あるいはnagara(洗練された、世俗的な)と呼ばれ、審美的にはとるに足りないものと見なされています。ところが、寺院や家の中の祭壇に祭られている神々や、敬われている先祖の霊を表す芸術作品は、内面的かつ霊的な「道」ないし「路」(marga)のしるしと考えられています。この言葉の語源は、動物の足跡とか臭跡という意味の狩りの用語で、狩人はその跡を辿って狙い定めた獲物をつきとめるのです。これと同じように、神々のイメージは、まさに「基本的観念」の地域的形態であり、いわば「最高我」(atman)がその地域を通って残した足跡なのです。こういったものを瞑想することによって信者たちは「最高我に対する法悦」(atmananda)に到達するわけです。ここでプロティノスの言葉を引用することができるでしょう。 「芸術作品を肉眼で見ている人々みんなが、同じ対象から同じような影響を受けるとはかぎらない。しかし、それが直感の中に遺っている原型の外的模像であることを知るならば、人々は心をゆすぶられ、原物の記憶を取り戻すのである」。 ・アリストテレスは『詩学』において、悲劇的感情として憐憫(ピティ)と恐怖(テラー)をあげました。スティーブン・ディーダラスは「アリストテレスは憐憫と恐怖を定義しなかった。ぼくはしたんだ」と言い、自分の定義を説明します。 「憐憫というのは人間の苦しみのなかで、厳粛なものや変わらないものにぶつかったとき、精神を引きとどめておき、それを苦しむ人間に結びつける感情なのだ」 (ここで問題になっているのは、苦しむ貧乏人とか、黒人とか、失業者ではなく、「苦しむ人間」だと注記しておいてもいいでしょう。憐憫において、私たちは地域的、民族的、あるいは社会的な仮面を貫いてその背後にいる人間へと到達するのです) 「恐怖というのは人間の苦しみのなかで、厳粛なものや変わらないものにぶつかったとき、精神を引きとどめておき、それをひそかな原因に結びつける感情なのだ」。ここに言われていることは私たちを至高なるものの試験に接近させます。あるひそかな原因とは何でしょうか。 (苦しみとは仏陀が彼の最初の高貴な真理「一切の生は苦なり」として定式化した問題です)

Posted byブクログ