小僧の神様・城の崎にて の商品レビュー
収録作品『城の崎にて』。この短編における蜂のエピソードは、ひとが世界に対して感じうる「淋しさ」「静けさ」というものを、最も秀逸に言語化した文章のひとつではなかろうか。われわれがこの文章からあらためて認識しうるのは、静けさなるものが、ただ聴覚によって感じ取られるばかりのものではな...
収録作品『城の崎にて』。この短編における蜂のエピソードは、ひとが世界に対して感じうる「淋しさ」「静けさ」というものを、最も秀逸に言語化した文章のひとつではなかろうか。われわれがこの文章からあらためて認識しうるのは、静けさなるものが、ただ聴覚によって感じ取られるばかりのものではない、ということだ。それはここにおいてまちがいなく視覚的な何かである。きわめて具体的な眼前の光景が、かつて柄谷行人が「気分」と呼んだようなある種の精神的な感覚をひきだすその瞬間に、ひとはここで書かれた「静かさ」と「淋しさ」に出会うのだ。 触覚をたれ下げ、足を抱きしめるようにして転がり、何日も微動だにせず放っておかれる死んだ蜂と、その横で忙しく立ち回る「いかにも生きている」風の大多数の蜂。両者を同時に意識することで、しかしここで「自分」が見たのは、同じひとつの存在に起こる生と死とのプロセスであったろう。死という静に「自分」がそこまで惹かれたのは、それがかつて生きていたということをかれが知っていたからにほかならない。そこで見いだされた淋しさは、「生の尊さ」などという語の枠内に容易に収まりうるものではない。それは、なぜかつて生き生きと動いていたはずのものと、いま目前にだらしなく転がる「いかにも死んだもの」とが同じ「個」でありうるのかという、根本的かつ解きえない疑問である。そして同時にその「淋しさ」と「静けさ」は、理解不可能な世界/自然に対する諦念でもある。時間的な経緯への連想をうちにふくんだそのような感覚を、志賀直哉はここでひとつの視覚的な情景----日暮れの瓦の上の死んだ蜂----のなかに、端的に結実させてみせたのだ。 そのほか、ここで挙げられているエピソードはどれも印象的で、とくにいもりの死にまつわるくだりは瞠目に値する。実を言うと蜂のエピソードよりもこっちのほうがわたしにとっては印象深かったかもしれない。しかしいい加減だらだら書きすぎたし、いや正直言ってちょっと力尽き気味。そのうちちゃんと書いてアップするやもしれない、というか、したい。
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小説の神様、と言われるにふさわしい、美しい日本語の代表みたいな人。表現力ってこういう事なんだ、と思わせてくれます。
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志賀直哉の作品は大好きで、この文体のファンですよ。 淡々とした雰囲気作りなど、志賀は工夫が好きなのだな。 暗夜行路や芥川の羅生門とあわせて買ったが、志賀作品はとくに読み応えがあった。
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志賀直哉の最高傑作の呼び声高い「城の崎にて」をはじめ表題作「小僧の神様」など、志賀直哉の真骨頂である短編を多く収録した作品集。
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志賀直哉の短編はお見事です。 特にこの中にある「城の崎にて」は、病人だからこそ持ちうる感性が繊細に描かれている。城崎に行ったことがある人なら、そのわびしい情緒とさらにあいまってgoodですよ
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生きていることと死んでいることの境界を考えるとき、 どちらもそんなに変わりは無い気がする、 しかし死へ向かう その場に立つと、自分はどうするか。 果たして自分が望む死とは。 そして今生きている自分も 偶然に生きているに過ぎないのかもしれない。 生と死をめぐり 静かに考えさせられ...
生きていることと死んでいることの境界を考えるとき、 どちらもそんなに変わりは無い気がする、 しかし死へ向かう その場に立つと、自分はどうするか。 果たして自分が望む死とは。 そして今生きている自分も 偶然に生きているに過ぎないのかもしれない。 生と死をめぐり 静かに考えさせられます。
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表題作の一本「城の崎にて」では、事故にあったが偶然に死ななかった男が小さな生き物たちの死を見ることを通して、少ない枚数ながらも生と死について深遠に考えさせる。
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「城の崎にて」は淡々と語られるけれど、さりげない日常の中から生死の重みをばっちりと切り取っていて読み応えがあります。 生きているというのは、本当はものすごく奇跡的なことなのでしょうか。
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学生時に現国の教科書として買った本。表題作2つと『赤西蠣太』しか読んでないが、『城の崎にて』の驚かそうと思って投げた石がイモリに命中したシーンの気まずさは後々まで覚えてたもんです。
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志賀直哉が活躍した当時、人気作家だったとのことだが、読んでみるとその「人気」は「どこが‥?」な印象を受けた。 単純に自分の読解力の乏しさが原因なのかもしれないけど。 それとも松岡正剛がいうところの「時間の洗礼を受ける」とはこういう事なのかもしれないな‥。 なんて2008年の今は...
志賀直哉が活躍した当時、人気作家だったとのことだが、読んでみるとその「人気」は「どこが‥?」な印象を受けた。 単純に自分の読解力の乏しさが原因なのかもしれないけど。 それとも松岡正剛がいうところの「時間の洗礼を受ける」とはこういう事なのかもしれないな‥。 なんて2008年の今は思う。 志賀が描いて読者に受けた「なにか」は、それから数十年経った現在は風化してしまっているということでは。 でも、現在読んでも耐えうる「別のなにか」はあるのだろうから、それを読み取れない自分の読解力はやっぱり乏しいんだろう。 改めてもう一度読んでみたいと思う。
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