名人 の商品レビュー
名人と同様、挑戦者の大竹七段もまた、難しい立場で、懊悩しながら碁を打っていたことが印象に残った。 碁界の最上位に位置する名人は、棋士として有終の美を飾らんと、病を押して打ち続ける。文字通り命を削って碁盤に臨む様には頭を垂れずにはいられない。その反面、自身の碁をとりまく周辺環境に...
名人と同様、挑戦者の大竹七段もまた、難しい立場で、懊悩しながら碁を打っていたことが印象に残った。 碁界の最上位に位置する名人は、棋士として有終の美を飾らんと、病を押して打ち続ける。文字通り命を削って碁盤に臨む様には頭を垂れずにはいられない。その反面、自身の碁をとりまく周辺環境に関しては自らを中心に廻っていたと言っても過言ではない。対局日や場所等、全てが名人の意向をまず忖度される。些か身勝手と思われる要望も道理を除けて通っていたりと、碁を打つことそのものに対するストレスは殆ど無かっただろう。 一方、大竹七段にしてみれば、真剣勝負の最中にあっても相手の体調への気遣いや配慮の情を持たざるを得ず、やり辛くて仕方なかったであろう。かといって、次代を担う数多くの棋士達の代表としてその場に臨んでいるという義務と自負もあり、浦上記者が言う通り、おいそれと勝負を投げてしまうわけにもいかない。大病ではないものの、常に身体不調を抱えていた七段もまた、極限状況の中で戦っていたといえるのではないだろうか。 それでも、決着に向けて歩みを止めない、止められない両者の姿は、求道者が持つある種の神々しさすら感じさせる。碁に命数を捧げ、碁を取り巻く係累から脱けられなくとも、一意に前へ進まんとするそのストイックさには只々敬服するばかり。
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不敗の名人、本因坊秀哉について描かれる。一芸に打ち込むことは美しい、たたえられるべきことに思われるが、本人にとってもそうなのか。客観的にみればそれは悲劇なのかもしれない。しかし、そんな生きざまにあこがれてしまう部分もある。川端康成の文章の静謐さと、名人の碁の凄みには共通するところ...
不敗の名人、本因坊秀哉について描かれる。一芸に打ち込むことは美しい、たたえられるべきことに思われるが、本人にとってもそうなのか。客観的にみればそれは悲劇なのかもしれない。しかし、そんな生きざまにあこがれてしまう部分もある。川端康成の文章の静謐さと、名人の碁の凄みには共通するところもあるかもしれない。
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本因坊秀哉名人の引退碁の話。勝負の世界も突き詰めると美しさがあって、それが無くなるとただのゲームやスポーツになってしまう。
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死んで思い出として残る人になりたい。それにしても子や孫含めてもせいぜい95年。その先は誰も覚えていない。諸行無常
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【出会い】 美術館でこの本からインスピレーションを受けた作品を見た 【感想】 私は碁を知らない。 そのため、筆者が伝えたかったことの10分の1もわかっていないのだと思う。 それでも、昔風の名人と現代風の7段との相違点を感じることはできる。 最近のマンガでもこのような描写はあるが...
【出会い】 美術館でこの本からインスピレーションを受けた作品を見た 【感想】 私は碁を知らない。 そのため、筆者が伝えたかったことの10分の1もわかっていないのだと思う。 それでも、昔風の名人と現代風の7段との相違点を感じることはできる。 最近のマンガでもこのような描写はあるが、この本はそれらのベースとなっているのだろうか。
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川端康成を読んだのは十数年ぶり。名人の死に顔を写真に撮る場面の静謐さ。名人と挑戦者の心理を追う緊迫感。全体を通じた描写の丹念さに、安心して身を委ねることができる読書であった。
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本因坊秀哉名人の引退試合の模様を綴る。もちろん棋譜より、対局者の鬼気迫る勝負に対峙する姿と描写。無駄をそぎ落としたような文章。14.2.23
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高校時代、囲碁部だったころに何かの参考になると思って読んで、別に実践書じゃなかったことが自分自身恥ずかしかった。名人が病身をおして最後の戦いに向き合う姿勢にプロの極みを見た心地だ。側で見届けた川端康成はより強く受け取ったのだろうなぁ。
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実際にあった本因坊秀哉名人の引退碁試合をベースに描かれた小説とのこと。名人の死を微細に描く始まりから、時間を引退碁興業試合時点にまで戻し、その死に至る試合をなぞることで、碁の盤面上の世界を無機質に表現している。 ここで描かれる秀哉名人は、物腰が柔らかい半面、囲碁・将棋・連珠・競馬...
実際にあった本因坊秀哉名人の引退碁試合をベースに描かれた小説とのこと。名人の死を微細に描く始まりから、時間を引退碁興業試合時点にまで戻し、その死に至る試合をなぞることで、碁の盤面上の世界を無機質に表現している。 ここで描かれる秀哉名人は、物腰が柔らかい半面、囲碁・将棋・連珠・競馬といった勝負事に狂う餓鬼道一直線の人物である。いにしえの芸道の頂点としての「碁名人」として、そのクライマックスを賭けて戦う姿は、勝負と芸能美が一体となった前近代の達人そのものだ。 これに対する大竹七段は、現代碁の試合を生きる繊細で研究肌の人物として描かれ、名人最後の試合相手として対称となっている。 半年にわたって継がれた一局の対戦を、秀哉名人の前近代名人の発想と死と隣り合わせの病気、そして試合の申し合わせを簡単に反故にすることの憤りから対戦停止を言い張る大竹七段という図式の中で、とにもかくにも進んでいく。 あまり囲碁を知らなくても読めるかなと思ったのですが、終盤は試合内容の細かい描写が続くので、やっぱり囲碁を知っていないと少し苦しかったです。(笑) 死を賭けた無機質な勝負の世界を、人間世界の思わくに彩られながら、筆者自身が仮託した人物の目を通して硬質な文章で描く。ところどころに挿入される色彩感覚も見事です。
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平野啓一郎の『葬送』に、「創作とはもっとも死に近づく行為である」というようなことが書いてあったのだけど、ここで言う「創作」という言葉を「芸術」と置き換えても差し支えないだろうと思う。芸術はおしなべて俗な人間の生活を離れた行為だ。名人もまさにそういう人だったのだと思う。この引退碁...
平野啓一郎の『葬送』に、「創作とはもっとも死に近づく行為である」というようなことが書いてあったのだけど、ここで言う「創作」という言葉を「芸術」と置き換えても差し支えないだろうと思う。芸術はおしなべて俗な人間の生活を離れた行為だ。名人もまさにそういう人だったのだと思う。この引退碁は文字通り命がけの勝負だったし、対戦相手の大竹七段が家庭人であったのとは対照的に、名人夫妻には子供もいなかった。 名人が敗れたとき、囲碁が芸道だった時代は終わりを告げた。剣道も柔道も、武道からたんなる競技の一種目になってしまったように。川端は文学の人だけど、それももともと芸道にちかいものだっただろう。ほかにも音楽や演劇なんかもそうかもしれない。「道」と呼ばれるものが商業化または大衆化していくと、みんなで楽しめるものになるかわりに、そこにあった崇高な精神は失われていくのだろう。良し悪しだよな。 しかし川端先生すばらしい。仕事帰りの電車の中で読んでいると、電車が最寄駅に着くのが腹立たしいほどだった。私の三昧境を邪魔しないで~。いや、どっぷりはまって降りないでいると、終点の埼玉県まで行ってしまうわけですが……。 ちなみに私は囲碁超弱いです。ちょーう弱いです。
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