「絶対」の探求 の商品レビュー
情熱に憑かれた人間の…
情熱に憑かれた人間の偉大と悲惨、「絶対」という観念のもたらす恐しい力を、フランス王政復古期の一地方都市を舞台に、旺盛な筆力と緊密な構成で見事に描ききった名作。
文庫OFF
先祖代々の遺産を売り払ったり借金を繰り返しながら、家族を顧みずひたすら絶対の探究に没頭するバルタザール、そんな夫に命を削られながらもなんとか金策に奔走しクラース家の身分や家庭の経済を守り抜いていく妻ジョゼフィーヌ。 後半では夫婦の長女マルグリットが母の遺志を引き継いでいく。 ...
先祖代々の遺産を売り払ったり借金を繰り返しながら、家族を顧みずひたすら絶対の探究に没頭するバルタザール、そんな夫に命を削られながらもなんとか金策に奔走しクラース家の身分や家庭の経済を守り抜いていく妻ジョゼフィーヌ。 後半では夫婦の長女マルグリットが母の遺志を引き継いでいく。 バルタザールの狂人と呼ばれるほどの研究への情熱に触れると研究者としては有能?なのだろうが、それに振り回される周囲の人間にとっては迷惑この上ないことだろう。 マルグリットの聡明さに感心。
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人間の姿を描くには何もそのひとの内部だけを書くといふのがすべてではない。生活する場、土地、人間模様から描き出すことだつてできるのだ。 『ゴリオ爺さん』や『谷間の百合』にも共通して言へることだと思ふが、対象をじつとみつめて捉へて離さない強い力を感じる。目の前で撃たれてひとが死んでも...
人間の姿を描くには何もそのひとの内部だけを書くといふのがすべてではない。生活する場、土地、人間模様から描き出すことだつてできるのだ。 『ゴリオ爺さん』や『谷間の百合』にも共通して言へることだと思ふが、対象をじつとみつめて捉へて離さない強い力を感じる。目の前で撃たれてひとが死んでも、その姿をカメラに収めて逃さないカメラマンのやうな、さうした力。見つめる者に対してバルザックは決して手を伸ばさうとしない。見つめて見つめて、その先で変りゆくのをただ移す鏡のやうな。 妻や娘、親戚などバルタザールを取り巻く人間はやかましいくらいに描かれてゐるのに対して、バルタザールはその容姿と言動、周囲の人間との関係の中で起きてゐる相互作用だけである。彼が自分自身の行動に触れた発言や周囲の人間と感情を共有できるやうなやり取りはなかつたのではないか。絶対の探求といふ欲望そのもので一貫されてゐる。 周囲の人間たちの面倒なまでの微妙な心の動きや所作を描ける人間が、バルタザールの心の動きを描かないとすれば、それはかなり意識・意図されたものだと思ふ。 社会で生きる人間であるなら、周囲の人間との関係、自分自身の立ち位置といふものを少なからず意識し、集団で生活できるやうに自ら調整を自動的にしやうとする。ところがバルタザールにはそれが一切ない。物語を通して彼は迷ひためらうことはない。これこそ物語が物語たるところであらう。 そして、さうしたバルタザールのほろびゆくさままで、バルザックはただただじつと起こるに任せてゐるだけである。バルザックのとてつもない観察欲もまた、バルタザールの探求心の相似形ではないか。
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マンネリとは紙一重で違う、堂々たる堂々巡り。 表紙に結末が書いてあるという岩波文庫の必殺技も作用して、読者はあらかじめ知らされた結末に向かって螺旋状に落ちていく物語を追うことになる。ここでマンネリに陥らずに、きわどく救われている理由を考えるのだが、定かには分からない。 リアリ...
マンネリとは紙一重で違う、堂々たる堂々巡り。 表紙に結末が書いてあるという岩波文庫の必殺技も作用して、読者はあらかじめ知らされた結末に向かって螺旋状に落ちていく物語を追うことになる。ここでマンネリに陥らずに、きわどく救われている理由を考えるのだが、定かには分からない。 リアリズムには乏しく、秀逸な心理描写も見当たらない。小説全体を通しての箱庭感というのが、マンネリを回避できている理由に当たるのか。狂人のもたらす悲喜劇が、家族の運命の一連の流れとして読める。狂人を住まわす町の、それ自体が生きているような姿が俯瞰される。このあたりの描かれ方が読者に力強い「それある感」を持たせているのは疑いない。この本に描かれる典型がマンネリだとすれば、人の生きる世というものが、そもそもそうなのだろう。 バルザックの作品は、そうしたマンネリを生きる、脇役たちが素晴らしい。ある出来事に際して脇役が発する言葉、行動というものの中に、その人物が背負っている状況や、経てきた歴史が想像できるように作られている。 主筋を追うのはもちろんだが、読むべきはこういうところだよね、という気がする。
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バルザック(1799-1850)の『人間喜劇』の中の一長編、1835年の作。 19世紀フランスの長編小説というのは、スタンダールにせよフローベールにせよゾラにせよ、どうしてこう退屈なのだろう。物語は躍動せず、文体ばかりが重苦しい、冗長なんだ。「年に何万フランの利益を上げる不動産...
バルザック(1799-1850)の『人間喜劇』の中の一長編、1835年の作。 19世紀フランスの長編小説というのは、スタンダールにせよフローベールにせよゾラにせよ、どうしてこう退屈なのだろう。物語は躍動せず、文体ばかりが重苦しい、冗長なんだ。「年に何万フランの利益を上げる不動産を抵当に入れる」だとか云う話でなければ、貴族だかブルジョアだかの女たちのカビの生えたような心理描写が大仰な言葉遣いで延々と続くだけ。 この作品は、「絶対」の観念に憑かれた男の狂気の内面を描くことは殆どなく、この男に振り回される妻や娘など周囲の人間に起こる感情や事件をただダラダラと叙述していく。だから、バルタザールは飽くまでこの小説にとっては外的異物のように描かれている、戯画化されたただの変人だ、この小説にとっての他者でしかない。「絶対」の深淵に不可避的に身を堕とさずにはおれないバルタザールのような人間の内面を、時に人間性の内部にもたげて自らを破滅に導かずにはおかないあの暗い力を、この小説は決して摘出してこない。外からその表面を観察しているだけで、内在的にあの狂気を炙り出そうとはしない。それは、そもそも作者の意図ではなかったのだろう。これは「絶対」の探求に憑かれた狂人の物語ではない、終始それは「絶対」の探求に憑かれた狂人に翻弄された普通人のあれやこれやに過ぎない。暇潰しにしかならない。
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難解なのにバルザックにはものすごく惹かれてしまって、 ついつい読んでしまうから不思議。 難解ゆえか、自分ではたくさん読んだつもりでも ページ数が減らないので無限なんじゃないかと時々思わされました。 ちなみに読了してません、1/3くらいまだ残ってる・・・
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