コリアン部落 の商品レビュー
白丁(ペクチョン)と呼ばれる、韓国の被差別民。その現状を探るレポートである。 筆者は自身も大阪の“路地”出身である。 取材を進めるにつれて明らかになっていく、韓国の人々の複雑な心境がとても興味深い。一方で「差別は無くなった」と言いながら、「(白丁出身者が多いとされる)食肉業者と...
白丁(ペクチョン)と呼ばれる、韓国の被差別民。その現状を探るレポートである。 筆者は自身も大阪の“路地”出身である。 取材を進めるにつれて明らかになっていく、韓国の人々の複雑な心境がとても興味深い。一方で「差別は無くなった」と言いながら、「(白丁出身者が多いとされる)食肉業者と結婚するのは嫌だ」という。表面上は差別部落などなくなったかのように見えるが、このような対応からすると、今もまだ差別は脈々と受け継がれているのであろう。 筆者の、「差別はどうやったらなくなっていくのか」という思いが随所にほとばしる一作である。 この本を読みながら、中学・高校時代に行った「人権・同和学習」のことを思い出した。 何の前触れもなく、とりあえず差別について話し合いなさい、と授業が始まり、皆が戸惑いながら、「差別はよくない。だからなくそう」と異口同音に述べて授業が終わる。 差別というものは、そんな通り一辺倒ではない。「なんとなく」という意識であるからこそ、とても厄介であり、容易に取り除くことができないのだ。
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『異形の日本人』の著者の、ちょっと前の本。近所の図書館にはなく、ヨソの図書館からの相貸で、どっかで見たハンコがついてるなと思ったら、実家近くの図書館からやってきた本だった。 サブタイトルのとおり「幻の韓国被差別民白丁を探して」という内容。白丁とは、「関西の被差別部落民によく似た...
『異形の日本人』の著者の、ちょっと前の本。近所の図書館にはなく、ヨソの図書館からの相貸で、どっかで見たハンコがついてるなと思ったら、実家近くの図書館からやってきた本だった。 サブタイトルのとおり「幻の韓国被差別民白丁を探して」という内容。白丁とは、「関西の被差別部落民によく似た存在」(p.6)で、「かつては家畜の屠畜やカゴ作りを専業とし、人間ではないと一般に認識されていた、賤民の中でももっとも底辺に位置した人々」(p.7)である。"韓国"とあるのは、おそらく著者が調査に行けたのが韓国だけだったからだろう。 著者は「白丁」について気になりだしてから、今はどうなっているのかと資料を集めてみるようになったが、なかなか資料がないだけでなく、書いてあることが矛盾しているのをどう理解していいかわからなかったという。 もう白丁はいない、白丁差別もない、と書いてあるかと思ったら、現在でも観念的には白丁に対する差別がある、と書いてあったり、「白丁差別はあるともいえるが、ないともいえる」ような状態らしい。 そして、被差別部落の解放運動に照らしていえば、かつてあった白丁の解放運動は戦後復活することなく、いわば「寝た子を起こすな」で沈黙してきた韓国で、もしも白丁差別がもうないといえるのならば、もしかすると運動団体の方針として対立してきた一方の「寝た子を起こすな」が、差別をなくすのに効果的といえるのかもしれない──著者はあらましこんなことを考えて、取材を始めたようだ。それから5年にわたり、取材は続いた。 白丁差別はあるのか、それともないのか。 著者が日本で入手していたわずかな資料にあった矛盾する内容に似て、著者の取材記を読んでいると、あたまがぐるぐるとしてくる。若い人も、けっこう年輩の人も、「白丁は教科書で習ったから知っている」「もう差別はない、白丁がもう存在しない」「身分なんてもう関係ない」というふうに著者の取材に答えている。しかし「結婚する相手が白丁の子孫だとしたら?」と訊ねると、こう言っていたほとんど全員が「絶対だめ」だと言うのだ。著者も頭がこんがらがってくると書く。いったい、この人たちは何を忌避しているのか?と。 著者が取材のあいまに、雑談で日本の被差別部落のことを話すと、多くの人は「引っ越せばいいのに」と言ったそうだ。どちらかといえば、これは「寝た子を起こすな」的な考え方なのだろう。 ▼その土地に住むことで差別されるのなら引っ越せばいいという現実的な考えと、なぜ差別の被害者が自ら引っ越さなくてはならないのか、悪いのは差別の方だという理想的な考え。 わたしは韓国に来てからというもの、こうして一から根本的に考えさせられてばかりいる。答えはもちろんでることはない。いや、そもそも答えを出すほうがおかしい問題なのかもしれない。(p.161) 白丁の存在が、分からなくなり、見えなくなっていったことの背景には、朝鮮戦争で全土が焦土と化し、多くが逃げ惑い、避難民となり、混乱の極みにあったことが大きいという。これに加え、日本の植民地支配があった。人が移動し、職を変え、そのことで誰が白丁だったか、どこが白丁の村だったかが分からなくなったというのが韓国知識人の通説だという。 「誰が白丁であったか分からない」というにもかかわらず、結婚の際にと問えば、忌避感情は強く表明される。これは何なのか。 本の後半、ソウルでつい二年前のことだというある結婚の話(互いに親が肉屋であることを隠してつきあっていた同士が、ある日親を会わせることになってみたら、どちらも肉屋だったことが分かり、隠す必要はなかったと結婚できたという話)を聞いて、著者が強い感情をあらわにしている。 ▼「おそらく白丁差別はまだある」そう日本にいるときから仮定としては思っていたが、それでも、わたしは、なくなっていてほしかったのである。せめて、絶滅寸前であってほしかった。韓国人に「日本は後れてますねえ」と言ってほしいものだと思っていた。わたしも笑いながら「そうだねえ」と悔しがりたかった。(p.226) もうこんな取材は嫌だと涙をボロボロとこぼした自分の姿を書きとめるところに、著者はやはり物書きなのだと思った。
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