1,800円以上の注文で送料無料

モードの迷宮 の商品レビュー

3.9

27件のお客様レビュー

  1. 5つ

    5

  2. 4つ

    9

  3. 3つ

    7

  4. 2つ

    0

  5. 1つ

    0

レビューを投稿

2018/03/25

本書の冒頭で、著者は衣服と身体の関係について考察をおこない、両者はぴったりと適合するのではなく、むしろ根源的なディスプロポーションを孕んでいるのではないかという見通しを示しています。そして、あたかもこの問題のまわりに何重にも思索をめぐらせていくようにして、衣服と身体、禁欲とエロテ...

本書の冒頭で、著者は衣服と身体の関係について考察をおこない、両者はぴったりと適合するのではなく、むしろ根源的なディスプロポーションを孕んでいるのではないかという見通しを示しています。そして、あたかもこの問題のまわりに何重にも思索をめぐらせていくようにして、衣服と身体、禁欲とエロティシズム、自己と世界がくるくると位置を反転しつづけていく可逆的な運動を書き留めていきます。 比較的小さな本ですが、哲学的な考察でありながら、ファッションというテーマに寄り添うようなスタイリッシュな文章でつづられており、魅了されます。

Posted byブクログ

2016/07/19

「(仮称)図書館員は何を着ているか?」に向けて鷲田先生のファッション論を読んでおかねば、と思った。 難しくって全く分からん。これが『マリ・クレール』に連載されてた、と知って、そういえば昔のあの雑誌はキレがあったよなと思い出した。

Posted byブクログ

2016/04/17

箱を振って中身を確認するような、というのはとてもよくわかる むつかしい( '' ) ロランバルトを読まなきゃいけない、、

Posted byブクログ

2014/11/07
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

[ 内容 ] たとえば、このドレスはわたしの身体を覆っているのだろうか。 逆に晒しているとはいえないだろうか。 たとえば、衣服は何をひたすら隠しているのだろうか。 いやむしろ、何もないからこそ、あれほど飾りたてているのではないだろうか。 ファッションは、自ら創出すると同時に裏切り、設定すると同時に瓦解させ、たえずおのれを超えてゆこうとする運動体である。 そんなファッションを相反する動性に引き裂かれた状態、つまりディスプロポーションとしてとらえること、そしてそれを通じて、“わたし”の存在がまさにそれであるような、根源的ディスプロポーションのなかに分け入ってゆくこと、それが問題だ。 サントリー学芸賞受賞作。 [ 目次 ] 1 拘束の逆説(意識の皮膚;従順な身体;シンデレラの夢;誘惑の糸口;騒がしい境界) 2 隠蔽の照準(泡だつ表面;“肉”の回避;最後のヴェール;イマジネールな外縁;同一性の遊び) 3 変形の規則(饒舌な可視性;身体のシミュレーション;“わたし”のもろさ;無秩序に変えられるための秩序;明るいニヒリズム?) [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]

Posted byブクログ

2014/02/20

『モードの迷宮』というタイトルが的を得ている。 論の展開としては見る・見られるの関係から自分が想像している自分として映っているかという身体論から、衣服と「自分」そして世界との関係性や、それにおける衣服の役割、意義や価値、について述べ、第三章でモードについて考察されている。 モ...

『モードの迷宮』というタイトルが的を得ている。 論の展開としては見る・見られるの関係から自分が想像している自分として映っているかという身体論から、衣服と「自分」そして世界との関係性や、それにおける衣服の役割、意義や価値、について述べ、第三章でモードについて考察されている。 モードの経緯を触りだけ見ても、モードは絶えず変動し、自己矛盾を孕み、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、方向を収束させようとしては膨張していったりするように否が応にもディスプロポーションがある。しかしそれこそがまた自分を自分たらしめているわけで、結局見えてくるものは文中にも頻繁に出てくるが「自分」というものがどれほど脆く危ういものなのかということであり、「わたし」という存在のディスプロポーションでしかく、モードとはその現れでしかないのではないか、それが「モードの迷宮」の終着点な気がした。 シンデレラの靴、ジュネップの『通過儀礼』やバルトらの引用と面白い話もいっぱい。 「モードとは、無秩序に変えられるためにある秩序である。」 「モードを愚弄するそのような契機はモードそのもののうちにある。何よりもモード自身がモードの裏をかいてしまうのである。」

Posted byブクログ

2012/12/27

受験生や大学一回生に課題図書として読んでもらいたいような文章。とてもわかりやすくモードという現象について書かれている。 ファッションやモードなど、享受するばかりで思考停止しがちな”流行”というものの中で僕らの身体というものがどういった扱いを受けているのか、どういった眼差しで僕らは...

受験生や大学一回生に課題図書として読んでもらいたいような文章。とてもわかりやすくモードという現象について書かれている。 ファッションやモードなど、享受するばかりで思考停止しがちな”流行”というものの中で僕らの身体というものがどういった扱いを受けているのか、どういった眼差しで僕らは身体を眺めているのかを、思い起こされるような内容。

Posted byブクログ

2011/12/12

阪大(大阪大学)を昔訪れたことがあって、本好きであった私は生協の書籍部も覗いてみようという気になった。鷲田先生は当時は助教授であったと記憶しているが、生協での鷲田先生の著作の揃いっぷりにやはり人気で花形の先生なんだろうな、という思いがした。そしてその後鷲田先生は阪大の総長にまでな...

阪大(大阪大学)を昔訪れたことがあって、本好きであった私は生協の書籍部も覗いてみようという気になった。鷲田先生は当時は助教授であったと記憶しているが、生協での鷲田先生の著作の揃いっぷりにやはり人気で花形の先生なんだろうな、という思いがした。そしてその後鷲田先生は阪大の総長にまでなられます。そんな鷲田先生の出世作(?たぶん) 本を整理していたら積読になっていた本書が出てきたので最近現象学に興味あることもあって読もうと思った。 「身体」と「衣服」についての諸考察が続く。例えばヴィクトリア朝時代の女性のコルセットについて触れ、それが命を脅かすような事態を招くことになろうとも、結局のところ周囲に蔓延する道徳観という縛りによってコルセットを付けるのをやめることができない、というような現象を引き合いにして、身体、もしくは「見る/見られる」ことについて文章が展開されていく。ロラン・バルトやメルロ=ポンティといった思想家の言葉も巧みに引用されていく。さすがに哲学とあって晦渋な表現も散見されるが、全体的に鮮やかな印象だった。 自分としては衣服の機能性についての考察がもっと深く掘り下げられるのかなと思っていたが、そのあたりは読む前の期待とは異なり、衣服よりはそれを着る「わたし」に対する考察がより巡らされているという印象だった。さすがに「じぶん・この不思議な存在」とか「普通をだれも教えてくれない」といった著作がある鷲田先生だなと思ったりした。 自分が知らないうちに何に縛られているのかを知ることはやはり何かから自由になるための一つの手段なんだろう。わかればあとはそこから逸脱するもよし、愉しく縛られるのもよし、なんだと思う。

Posted byブクログ

2011/11/22

そもそも、衣服とは何であるか?衣服とは、様式でありそれはファッションでありモードである。ちなみに、ここではファッションを流行という字義によってではなく、様式として定義する。さて、著者はここにおいて、「衣服とは覆いではなくて身体そのものである」としている。つまり、我々は衣服も身体の...

そもそも、衣服とは何であるか?衣服とは、様式でありそれはファッションでありモードである。ちなみに、ここではファッションを流行という字義によってではなく、様式として定義する。さて、著者はここにおいて、「衣服とは覆いではなくて身体そのものである」としている。つまり、我々は衣服も身体の延長として捉えているわけであり、そう考えれば、衣服というのは我々を我々たらしめるモードであろう。無論、そのモードには本来の身体も含まれる。なぜなら、我々が我々を我々たらしめているものとは、身体でしかないのだから。少なくとも、見えるのは身体くらいなわけである。とはいえ、その身体は実際に視覚的に映じる身体というよりは我々が想像する精神的な身体である。それゆえに、我々は鏡を見ると、どきっとしてしまう。そこに自分が想像した身体が反映されていないからである。だから、ある人は鏡が嫌いになり、ある人は気になって仕方なくなり、ある人は好きになるわけだけれども、どれもこれも根本的な感情は一緒であろう。我々は我々が想像する我々が映じているかどうか気になってしまうのである。と、これが序論。 続いて、では、モードとは衣服とはその意味とは?価値とは?そこに含まれる欺瞞とは?といったことを鷲田は問うていく。そして、ここで鷲田の自他感が出現する。鷲田は自分が自分であることに、いや、わたしがこのわたしであることに実は理由などないのだと述べる。だが、その事実は我々を不安にする。だからこそ、それを隠蔽する必要がある。そのためのモードであり衣服であり、ファッションである。我々は衣服によって、自らを世界から弁別する。そうすることによって、我々は我々を我々足らしめる。そのことによってしか、我々は我々を世界から分離できない。精神的には分離しているつもりでも、実は我々が我々である理由など発見できないのだから、だとすれば、我々は我々を世界から切り取るほかはないのである。つまり、他者の存在が我々を我々たらしめているのであり、その他者との境界に一役買っているのが、衣服なのであろう。我々は非常にあやふやな世界に、かくして我々を固着し、我々を同定し、我々の自己同一性を成立したかのように、無意識的に信じる(欺瞞)。この自他感がレイン現象学であり、そこに身体という明確なようで実は明確でない境界を設けたのがどうやらメルロポンティであるらしいが、このこのレインメルロポンティ現象学というのは実は鷲田の解釈によるものでしかないだろうから、良くも悪くもこれは鷲田現象学なのであろう。 第三章においては、更にモードについて考察が深められる。それは、モードの生態とでも言ったらいいであろうか?モードは自己矛盾を孕むものであり、それゆえに、開かれているようで閉じられている。意味を収束させようとしているようで、意味を増やし続ける。意味が増え続ければ、我々は我々として他者からうまく切り取りきれない。そもそも、モードは絶えずシフトし続ける。それを我々は押しとどめることができない以上、モードは絶えずれ続けそこには必ず不均衡=ディスプロポーションがある。モードは定まりきらず、それゆえにモードは無限的に増殖し続ける。結果として、我々の意思から離れてゆくモードはしかし、本来は我々を我々足らしめるための身体の延長であったはずなのである。と、ここまでくれば、我々が捉えるところの<わたし>というものは酷く危ういものであるということが最終的に見えてくる。なぜならば、<わたし>というやつはそれは身体的なものでありながら、しかし、わたしがわたしの身体を直視できない以上、それは想像上の身体でありながら、それは絶えず変動し、わたしですら捉えきれない、いやそもそも、直視できない以上それは当たり前とも言えるのだが、だとすれば、最終的に回帰するところはモードがどうこうというよりは、<わたし>という存在危うさ=のディスプロポーションでしかないし、鷲田のモード論の迷宮に到達点があるとすればそこなのではないだろうか?そして、それに気づかぬように我々はますますモードの迷宮にのめりこむこととなるのだろう。

Posted byブクログ

2011/04/02

ファッションを哲学、とくにメルロポンティの思想や身体論の文脈で語るという斬新な試みがなされている。 鷲田清一氏の文章を最初に読んだのは、高校の現代文の教科書に載っていた文章(タイトルは忘れてしまったけど、地域共同体の崩壊がどうたらとかだったような)がすごく面白かったのがきっかけ...

ファッションを哲学、とくにメルロポンティの思想や身体論の文脈で語るという斬新な試みがなされている。 鷲田清一氏の文章を最初に読んだのは、高校の現代文の教科書に載っていた文章(タイトルは忘れてしまったけど、地域共同体の崩壊がどうたらとかだったような)がすごく面白かったのがきっかけたった。 この本が出版された後に、中高生・一般向けにわかりやすく書かれた「ちぐはぐな身体ーファッションって何」という本も出ている。 はじめの一章分くらいを読んで、あとはざっと読んだ程度。 私は「ちぐはぐな身体」から先に読み始めたのだが、「ちぐはぐな身体」のほうが後に書かれたということもあってか「モードの迷宮」よりもよくまとまっている印象を受けた。 でも「モードの迷宮」は哲学の論文のような体裁なので哲学者の著作からの引用が多い。鷲田氏のアイデアの元になっている思想家の名前や著作も知りたいなら「モードの迷宮」のほうがおすすめ。

Posted byブクログ

2010/02/11

序 ディスプロポーション Ⅰ 拘束の逆説 Ⅱ 隠蔽の照準 Ⅲ 変形の規則 引用文献 あとがき 文庫版あとがき 解説 (目次より)

Posted byブクログ