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縄文少年ヨギ(文庫版) の商品レビュー

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2016/04/15

「水木しげるの古代出雲」を読んだ時に、この人考古学の本が大好きなんだ、と同好の士を発見して嬉しかったのだが、これを読んで、水木さんはかなり前から考古学本を読み込んでいたことがわかった(文庫本でも1992年発行)。水木しげるさんの古代が面白いのは、決して学説を金科玉条の如くに丸写し...

「水木しげるの古代出雲」を読んだ時に、この人考古学の本が大好きなんだ、と同好の士を発見して嬉しかったのだが、これを読んで、水木さんはかなり前から考古学本を読み込んでいたことがわかった(文庫本でも1992年発行)。水木しげるさんの古代が面白いのは、決して学説を金科玉条の如くに丸写しするのではなくて、ほとんど好い加減なくらいに自分流にアレンジしているところだろう。だから、ところどころ異論はある。1番大きな異論は、この物語の中でいく度となくムラとムラとの争いが描かれるのだが、縄文時代には人を殺すような武器は発達していなかったことが、考古学的に認められている。物語を作る上で、戦争は最も人々のドラマが顕在化し易いのでそうなったのだろうが、「縄文時代には戦争はなかった」のである。その論は、90年代に唱えられたので、水木しげるには届いていなかったのだろう。 信州の黒曜石を海岸に運んでは塩と交換している老人が登場したり、呪術師としての修業のあり方、超自然現象を当たり前のこととして捉える縄文人の豊かな感性などは水木しげるのニューギニア体験に基づく豊かな実感マンガなのではないかと思う。 一つ、印象的な回があった。すべて思い通りになるという「争いの壺」を手に入れたヨギは、それをムラに持ち帰りイネを育てたりして、すぐに金持ちになる。すると、周りの家の狩の収獲がへったりして「幸福感」が減ってしまう。それではダメということで、ムラ全体の収獲を増やすと、隣のムラの幸福感が減る。そして、よそのムラは戦争の準備を始める。よそのムラの言い分はこうだ。「いつの時代でも幸福の量は物心両面で一定している。あんたのムラだけが幸福になり過ぎたから、わしらのムラの幸福が減るのだ。いま連合軍であんたのムラを囲んでいる。幸福を偏らせる元であるヨギを殺し、壺を遠くに捨てない限り、この富の偏りは治らない。出来なければ、わしらはお前のムラの者全員殺す」 ヨギは壺を壊そうとするが、果たせない。壺はヨギを食べようとする。その時に、ヨギが壺を見つけた遠因となった美人が、壺の中に身を投じて食われてしまう。争いは治まった。 それから二・三日して争いのきっかけとなった家の三者が話し合った。 美人の父はしきたりを守らなかったのが悪かったといい、わしは娘をなくしヨギはひどい目にあった。しきたりを守らなくて祖先の怒りがムラにやってきた、と反省する。他の人物も欲が壺を招いたのだと反省する。「あの壺は我々のムラを見守る神のような気がする」という結論に達するのである。 悪魔のような壺を恨むのではなく、「我々も悪かった」と反省する。そして超自然現象を司る不思議なモノを神と崇める。また、本質的に戦争を避ける。「富の偏在」が必ずしも悪いのではないだろう。しかし「幸福感の偏在」はよくないと結論つける縄文時代の人々の感覚は、現代人に対する厳しい戒め(今となっては遺言)のようにも思えるのである。 水木しげるの縄文観はむしろ弥生時代に似ているが、どちらにせよ日本人の心性をよく表していると思うのである。 2016年4月8日読了

Posted byブクログ