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国学の他者像 の商品レビュー

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2件のお客様レビュー

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2020/07/09

本書の「はじめに」で著者は、「そもそも学問としての国学は、きわめて方法意識のつよい学問思想であるといえる」と指摘しています。仏教や儒教との対抗関係を通して、独自の思想を構築してきた国学は、他者との差異によってその思想的領野を切り開いてきたということができるでしょう。ただし本書は、...

本書の「はじめに」で著者は、「そもそも学問としての国学は、きわめて方法意識のつよい学問思想であるといえる」と指摘しています。仏教や儒教との対抗関係を通して、独自の思想を構築してきた国学は、他者との差異によってその思想的領野を切り開いてきたということができるでしょう。ただし本書は、そうした国学のあり方を外部から検討してそのイデオロギー的性格を暴露するのではなく、国学者たちの歌論を中心に、内在的な観点から「誠実」(まこと)と「虚偽」(いつわり)の差異についての検討をおこなっています。とりあげられているのは、戸田茂睡、契沖、賀茂真淵、本居宣長、富士谷御杖の五人ですが、とくに宣長と御杖にかんする議論が興味深く感じました。 宣長は『あしわけをぶね』のなかで、歌をよく詠もうとする「心」は「偽り」だと思われるが、それもまた詠むひとの「実情」(まこと)であると論じています。著者は、ここで宣長によって「私秘性」が剔抉されたことを指摘し、御杖においてそうした思いが歌となって現われ出ることに「まこと」が見いだされていたと論じています。 本書の「終章」では、「誠実」と「偽り」という本書のテーマをめぐって、和辻哲郎や相良亨、あるいは森有正や土田杏村といった思想家たちの議論を参照しながら、本書の議論の射程が改めて明らかにされています。とくに興味深く感じたのは、日本人において「経験」が二人称的な関係のなかで規定されていると森有正が論じていたことに触れ、宣長の言語論を通して森が「自分一個の経験」を打ち出す修辞のありようを探求していたのではないかという展望を示していることです。こうした著者の展望が妥当するものかどうか判断はできませんが、日本思想史の重要な問題に触れる議論であることはまちがいないように思います。

Posted byブクログ

2009/10/04

 国学という思想を「他者」という視点から扱ったものである。過度に同質性を強調するからこそ、「差違」(「他者」)に敏感な思想であるという出発点があり、主題として、 共同体内部で自己と対面的に存在する「他者」を扱う。それは子安宣邦に代表される国民国家批判の動向に連動する、国学の「他者...

 国学という思想を「他者」という視点から扱ったものである。過度に同質性を強調するからこそ、「差違」(「他者」)に敏感な思想であるという出発点があり、主題として、 共同体内部で自己と対面的に存在する「他者」を扱う。それは子安宣邦に代表される国民国家批判の動向に連動する、国学の「他者」=異国(中国)を巡る言説への批判ともなっている。  国学者は、個人が「私秘なるもの」を抱えているが故に、人間は相互に共感しがたいという点から出発している。賀茂真淵はそれでも「直き心」ゆえ、人は思い切ってその内面を歌に託し表明することで他者の共感を得られる。本居宣長は「私秘なるもの」=「軽薄」「姦邪」「悪心」は、そのまま詠めば拙い歌となり決して他者の共感を得られないとし、「もののあはれ」を“学ぶ”ことを説く。  こうした点から筆者は国学の思想を「自他の断絶とその先でのあらためての自他をむすぶものをめぐるもの」とする。それは安易に異国あるいは異文化を「他者」とすることで抜け落ちる、生活空間に立脚した「日常の解釈学」という側面を国学に取り戻す作業であった。

Posted byブクログ