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定本 柄谷行人集(1) の商品レビュー

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2009/10/04

そういえば、6月に観に行った福田和也との公開対談で、柄谷行人がこんなことを云っていました。/「しばらくまえアメリカに滞在していた時にドゥルーズのエッセイ(*)を英訳で読んでいたのだが、そこに、サルトルは私にとっての"private teacher"だった、とい...

そういえば、6月に観に行った福田和也との公開対談で、柄谷行人がこんなことを云っていました。/「しばらくまえアメリカに滞在していた時にドゥルーズのエッセイ(*)を英訳で読んでいたのだが、そこに、サルトルは私にとっての"private teacher"だった、というようなことが書かれていた。"private teacher"というのは"public professor"に対立するもので「師」というニュアンスの強いものだが、僕(=柄谷行人)がデビューした時には、まだ、そういう意味で"private teacher"と云える存在が身近にいくらもいたのだが……。」/文学の終焉をめぐる講演で話題を呼んだばかりの柄谷の話は、当然、そこから文壇の解体について触れることになるわけですが、たしかに、彼が「群像」でデビューした年には、まだ志賀直哉も川端康成も存命であり、「日本近代文学の起源」が書かれた1977年には現役の小林秀雄が『本居宣長』を執筆していたわけです。/その時代の濃密な−−あるいは自閉的な−−雰囲気の文壇/文学界のなかで自明視されてきた「文学史」がフィクションだということを曝きたてようとする野蛮な試みには、それにふさわしい文体が必要とされるわけですが、その当時の筆致に80年代、90年代に得た新たな認識が接木されている本書は、まぎれもなく彼の代表作としてよいでしょうね。(これは、自身の意図がどうであれ『トランスクリティーク』では代表させられないという意味を含めて云うわけですが……)

Posted byブクログ