存在と自我 の商品レビュー
ヘンリッヒのカント解釈との対決を試みた力作。ただ、著者の理解するカントの立場から、現代のさまざまな哲学的立場に対してどのように妥当性を主張しうるのかという点についての議論がないのが少し残念に思った。 第一部は「超越論的観念論」の解明に当てられている。私たちにとっての世界は、「可...
ヘンリッヒのカント解釈との対決を試みた力作。ただ、著者の理解するカントの立場から、現代のさまざまな哲学的立場に対してどのように妥当性を主張しうるのかという点についての議論がないのが少し残念に思った。 第一部は「超越論的観念論」の解明に当てられている。私たちにとっての世界は、「可能な知覚」を構成する「自我」の活動によって、認識の客観的な妥当性を主張しうる領域として意味的に構成されたものである。ただし、そうした意味を構成する主体としての自我は、世界に先立って存在するのではない。みずからを、四次元の自覚・空間的枠組みをそなえた「可能な経験の全体」という領野の内で活動する主体として、世界の意味構成と同時にみずからを定立する活動である。 第二部は「超越論的演繹論」の解明がなされる。著者は、D・ヘンリッヒの『同一性と客観性』に示された演繹論解釈を紹介しつつ、それとは異なった解釈の道を切り開こうとしている。そのつどの意識の働きは「私は考える」という統覚に貫かれていることで、同一の「私」の意識として理解される。この統覚は、可能な意識の総体に関係しており、それらのすべてにわたって意識する「私」の同一性をアプリオリに確定している。他方、そのつどの意識は特定の内容を対象にもっており、それらの対象はそのつどの意識する「私」の同一性を妨げないようなあり方をしている必要がある。これこそが、カテゴリに適合していなければならないということを意味しているというのが、ヘンリッヒの解明したことであった。以上の議論はカテゴリの「超越論的演繹」に相当し、それに続いて、カテゴリの体系を実際に導く「形而上学的演繹」の解明がおこなわれる。 さて、こうしたヘンリッヒの解釈に対して著者は、「諸々の判断形式によって内実を規定される「悟性」と、アプリオリな「自己意識」(「純粋な統覚」)ないしはその「主観」とは、原理的に言って別ものなのであろうか」という疑問を投げかけ、別の解釈の道を探ろうとする。著者が着目するのは「構想力」による「超越論的総合」に関するカントの議論である。それは、一方では、経験的な直観を一つの形象として形成することでそれが私と出会う機会を可能にしつつ、他方では、そうしたあらゆる出会いを通じて同一の「私」として自己が成立する場所を形成するような働きである。おそらく著者は、こうした解釈によって、第一部で論じられた世界を意味論的に構成する働きを、〈かたち〉をもつ対象との出会いという具体的な場面に根づかせることをめざしているのだと思われる。
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立正大学教授。 カントは自らの思索を首尾よく一貫して完遂しえたであろうか。カント哲学の主要テーゼである「超越論的観念論」とそれを根拠づける「超越論的演繹」を精査する。
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