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見えない都市 の商品レビュー

3.8

41件のお客様レビュー

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カルビーノの主作の一…

カルビーノの主作の一つですね。日本では一番好まれている作品ではないでしょうか?マルコ・ポーロがフビライ汗の寵臣となって、様々な空想都市(巨大都市、無形都市など)の奇妙で不思議な報告を描く幻想小説です。

文庫OFF

まさに宝玉糸線細工。…

まさに宝玉糸線細工。とても面白い1冊です。

文庫OFF

2024/01/29

マルコ・ポーロがフビライ汗に旅してきた各地の街を語るだけなのだが、その語られる街の数々がとても奇妙。 おとぎ話のような空想都市の強烈なイメージの数々を聞いているだけでも面白い。 抽象的なものも多いのだが、語りの美しさもあって、あっという間に読んでしまった。 そして差し込まれるマル...

マルコ・ポーロがフビライ汗に旅してきた各地の街を語るだけなのだが、その語られる街の数々がとても奇妙。 おとぎ話のような空想都市の強烈なイメージの数々を聞いているだけでも面白い。 抽象的なものも多いのだが、語りの美しさもあって、あっという間に読んでしまった。 そして差し込まれるマルコ・ポーロとフビライ汗のやり取りも不思議なおかしみがあった。 イタロ・カルヴィーノ作品では『冬の夜ひとりの旅人が』の次くらいに面白かった。

Posted byブクログ

2023/11/24
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

ずいぶんむかしに読んだ本を再読。 高校生のときかな。モグが図書室から借りて読んでいたのを、彼女が読み終えると同時に私が借りて読んだんだ。柳瀬尚紀さんが巻末の解説で「確かブルーを基調としたデザインで、地球か気球のような球体と、確か刳り抜かれた円形の穴…」と書かれていた、その本だ。 私が手にとったときはすでに相当古びていた。モグによると、書架の下のほうにあって、本の天にはうっすら埃が積もっていたらしい。高校図書室の配架でのイタリア文学の扱いなんて、たぶんどこでもそんなものだったと思う。 当時の私は宮沢賢治に夢中で、全集を隅っこからかたっぱしに読んでいたけど、モグがずいぶん眉根を寄せて読んでいたから、私も気になって読んでみたというところだった。 案の定、私にはさっぱりわからなかった。 筋らしい筋もなく、マルコ・ポーロが語る奇妙な(あまりに観念的過ぎて視覚的なイメージも抱きにくい)都市の報告を延々と読まされる。その報告には人間らしい共感や情緒が感じられず(死者が住まう都市アデルマの話は例外か)、挿入されるポーロとフビライの会話もなんだかあまりに作り物めいていて、そもそもこの本がいったい何について書かれたものなのか、文学と言えるものなのかもよくわからなかった。私もモグと同じく、最初から最後まで眉根を寄せたままなんとなく読了した。 でも、それで完全に私の脳から消え去ってしまったわけでもない。「フビライ汗は一冊の地図帖をもっており…」、この「地図帖」という語に「アトラス」とルビがふってあった。かっこよかった。中二病がうずいてそこだけはノートに書き抜いたりした。 宮沢賢治熱が冷めはじめると、私はラテン語圏の幻想文学を好んで読むようになったけれど、ラテン文学圏の人たちって「一冊の本のなかに世界の全体が書き込まれている」というイメージが大層好きなんだなと、この本を想いながらあとになって気がついたりした。ボルヘスの著作すべてしかり。また、私にとってはガルシア=マルケス『百年の孤独』もそういう本だ。この種の「アトラス」に私が最初に触れたのが、『見えない都市』だったってわけ(いまでは、ラテン・カトリック文化のなかで『聖書』こそが、世界最初の「アトラス」だったことくらいは私だって知っている)。 こんなふうに文庫本が出版されている現在、母校の図書室のあの本も、とっくのむかしに除籍され廃棄されていると思う。モグと私が眉根を寄せて、よくわからないまま読んだあの本は、ポーロの報告のように、フビライが心のどこかで感じてしまう大元帝国が退嬰していく気配のように、もうこの世にないだろう。

Posted byブクログ

2022/12/30

イタリアの作家カルヴィーノの見えない都市。 1番のお気に入りに推してる人がいて読もうとして過去挫折。やっと読了。都市と記憶,都市と欲望。なんらかの都市についての短編がたくさん。マルコポーロがフビライに語る形で進んでいく。

Posted byブクログ

2022/02/04

p69湖水の鏡の上にあるヴァルドラーダ「おのれの一挙手一投足が、ただ単にそのような行為であるばかりか同時にその映像ともなること、しかもそれには肖像画のもつあの特殊な威厳が与えられていることをよく心得ており、こうした自覚のために彼らは片時たりとも偶然や不注意に身をまかせることを妨げ...

p69湖水の鏡の上にあるヴァルドラーダ「おのれの一挙手一投足が、ただ単にそのような行為であるばかりか同時にその映像ともなること、しかもそれには肖像画のもつあの特殊な威厳が与えられていることをよく心得ており、こうした自覚のために彼らは片時たりとも偶然や不注意に身をまかせることを妨げられておるのでございます。」 p21しるしの都市タマラ「人はタマラの都を訪れ見物しているものと信じているものの、その実われわれはただこの都市がそれによってみずからとそのあらゆる部分を定義している無数の名前を記録するばかりなのでございます。」 p113「思い出のなかの姿というものは、一たび言葉によって定着されるや、消えてなくなるものでございます」「恐らく、ヴェネツィアを、もしもお話し申し上げますならば、一遍に失うことになるのを私は恐れているのでございましょう。それとも、他の都市のことを申し上げながら、私はすでに少しずつ、故国の都市を失っているのかもしれません。」 p118「もしも二つの柱廊のうち一方がいつもいっそう心楽しく思われるとするならば、それはただ三十年前に刺繍もみごとな袍衣の袖をひるがえして少女がそこを通ったその柱廊に他ならないからでございますし、あるいはある時刻になると日射しを浴びるその様が、もはやどこであったかは思い出せないあの柱廊に似ているというだけのことなのでございます。」 p167「世界はただ一つのトルーデで覆いつくされているのであって、これは始めもなければ終りもない、ただ飛行場で名前を変えるだけの都市なのです。」 どこにでもあり、しかしどこにもなく、そしてそれは既に見た記憶かもしれないしこれから見る予感のものかもしれない。蜃気楼のように何もないのに、読んでて脳裏にシルクロードの、異国のイメージが浮かび消える。幻想文学。言葉と概念を弄んでいるだけかもしれないけど、端端の単語に幻想と脳のどこかに情感を呼び起こさせるひらめきがある。構成や意図などを、計算的に読み取るほどじっくりは読まなかった。

Posted byブクログ

2019/02/02
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

モンゴルの皇帝とマルコ・ポーロ。この組み合わせだけでも読む価値があるというもんだ。カルヴィーノは言葉しか信じないが、われわれ凡人は実在を期待してしまうので、永遠に届かない世界を「あるんじゃないか?」と期待しながら、むなしく空回りしてしまう。

Posted byブクログ

2018/12/25

薄い本なのに、ようやく読み終えた。初イタロ・カルヴィーノ。延々と続くマルコ・ポーロのホラ話?詭弁?に付き合わされて、ワクワク、ドキドキ、ハラハラなんてしない。どこから面白くなるんだ、これ?って感じで終わっちゃったジャン。俺には高尚過ぎたようだ。(T.T)

Posted byブクログ

2018/06/12

イタロ・カルヴィーノ1972年の作。ネタバレを回避してあらすじを書くのが不可能な作品ともいえるし、話の展開のようなものがなく、なにを書いてもネタバレにならないともいえる。いずれにしても、おそらく、何通りもの読み方ができる不思議な書。 フビライ汗に気に入られた(もしくは取り入った...

イタロ・カルヴィーノ1972年の作。ネタバレを回避してあらすじを書くのが不可能な作品ともいえるし、話の展開のようなものがなく、なにを書いてもネタバレにならないともいえる。いずれにしても、おそらく、何通りもの読み方ができる不思議な書。 フビライ汗に気に入られた(もしくは取り入った)マルコ・ポーロが旅行中に訪問した55の都市をひとつひとつ、フビライの前で話して聞かせるかたちになっている。ひとつひとつの都市の話は短く、また都市と都市の間につながりはない。小篇の集合といってよい。 読んでいるうちにわかるが、話に出てくるのはすべて架空の都市で、フビライやマルコが生きていた時代には存在しないようなものも出てくる。どの都市も特徴的なのに、その特徴はどんな都市も持っているようなありふれたもので、大変矛盾している。でも、人が「これは独自だ」とか「特徴的だ」というときのそれはたいていユニークだとは感じられないことから考えると、べつに矛盾していないのかもしれない。とにかく、現代社会が抱える──といってもこれが書かれたのは45年以上前だがいまでもほぼ当てはまる──さまざまな問題を細かく分解して、そのひとつひとつから発想を広げて構築した想像上の都市が、次から次に披露される。 マルコがフビライに報告するというかたちで一応物語は進む。が、登場するのが別にフビライとマルコである必要はなく、また登場人物と紹介される都市の間にもこれといった関係性はない。つまり、登場人物を置き換えても、取り上げる都市がどんなものであっても「見えない都市」は成り立つ。出てくるものはすべて、ほぼ、名前がついているだけの置物という印象だ。 そのことから、この物語は、話者が短い話を語って聞かせるという構造だけが決まっていて、その上で展開されるストーリーはモジュール化され、それぞれが独立していて、どうとでも入れ替えられるように見える。むしろ、「物語とは、土台と交換可能な表面によって構築されている」ということを強調するかのような作りになっていて、小説というジャンルを挑発しているように思える。 というのがわたしの読み。読み方によっては取り上げられた都市が抱える社会問題にフォーカスして掘り下げることもできるだろうし、全体に語り口が抽象的で「鑑賞者が解釈して完成させる」作品として捉えることもできるだろう。楽しみ方はいろいろあると思う。

Posted byブクログ

2018/01/14

その都市はいったいどこにあるのか。強大な力を持って果てしなく領土を広げゆくフビライと、地の果てまでひとり行くマルコ・ポーロが、それでもまだ知ることのできない都市と、どこかで見た都市を巡って時を過ごす。見知ったようなそれでいて遠い世界のお伽話が、電車で向かう仕事先とさえ重なり合う重...

その都市はいったいどこにあるのか。強大な力を持って果てしなく領土を広げゆくフビライと、地の果てまでひとり行くマルコ・ポーロが、それでもまだ知ることのできない都市と、どこかで見た都市を巡って時を過ごす。見知ったようなそれでいて遠い世界のお伽話が、電車で向かう仕事先とさえ重なり合う重畳された時間の流れの中で、じわじわと響きあう。やがて、読者である自分自身がその都市のひととなった。 電車の中にあって片手をあげて寄り添う人々は、誰ひとり言葉を発せず、互いに隣には誰ひとりいないようにふるまっている。たとえあなたがそこで何を目にしようがそれはあなたの脳が見た景色であって、隣で光る板を睨みながら首を捻じ曲げた若者がそこにいたとは限らない。なぜならその若者にはあなたが見えていないからである。それがトキオの慣わしなのだ。あなたがどれほど信じたとしても、時折電車がゆれて黒びかりするバッグが脇腹を押したとしても、それはあなたが感じていると信じる何かではあっても、存在している証明ではない。その若者がようやく次の駅で降りてあなたのとなりに呼吸する空間が出来たとしても、その若者はあなたの存在を微塵も覚えていない。あなたは存在すらしないのだ。あなたが通り過ぎたトキオの街が本当にあったのかすら怪しい。なぜならトキオの住人は誰一人あなたのことを覚えていないのだから。それでもトキオはそこにある。征服されざる街として。

Posted byブクログ