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職業としての学問 の商品レビュー

3.8

95件のお客様レビュー

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2020/07/11
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

ようやく読めた。一読のみでは内容を十分に理解しているとは到底言えないが、以下、現時点で読み取れたことを記載しておく。 旧訳の序(p.85~)によると、本書におけるウェーバーの主張は主に3点である。1点目は生計の資を得る道としての学問の現状、2点目は職業としての学問にたいして人々(特に教師および研究者)がとるべき心構え、3点目は学問の職分そのものについてである。1点目について印象的であったのは、学問を職業にすることには「偶然」が大きく作用するという主張である。つまり、実力いかんよりも、学問を職業とするためには、運の側面も重要であるということである。これは現代にも通用する。2点目については、やはり「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」という叱咤である。文章から想像するに、当時のドイツでは、文壇上から特定の政策に関する評価、主張を行う教師や、あるいはそれを求める学生などが存在していた。これに対しウェーバーは、「学問」と「政策」とは根本的に異なるものであるということを主張した上で、個々人に与えられた仕事に集中しろと主張する。特定の学問に専心すること、仕事以外のことに心酔しないことの重要性を説くのである。3点目に関しては、合理化が進み、学問それ自体も機械化の危機に瀕している現代において、学問に求められていることは、「明確さ」と「責任感を与えること」であると述べる。現象自体が複雑化している中で、全てを語ろうとするのではなく、(例え一部分であろうとも)特定の学問的見地から、明確な学問的成果を生み出し、それを評価ではなく、ただ知見として学生に提示することによって、学問を修めるものに責任を付与することであると解釈した。 この講演はすでに100年以上前のものであり、ここでの主張を全て現代にも応用できるとは限らない。しかし、当時のドイツの時代背景とともにこの主張を読み解くことで、彼が何を危惧し、批判し、主張しているのか、という構造に触れることができる。これは、現代にも通じるものがあると思う。現在は、総合政策的な、複数の学問的知見を組み合わせることによって、社会課題を解決するアプローチも出てきている。良くも悪くも、学問よりも、実社会に役立つことの比重が重くなってきている感覚がある。では、その中で、社会科学を探究する意味合いとは何か。ザッヘに専心しながらも、自分なりに考えを深めていきたい。

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2020/06/01

ウェーバー流に、学問とはなんぞや、教師とはなんぞやと、論を展開している。福沢諭吉の学問のすすめと比較すると、面白かった。

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2019/04/08

最近の憂鬱。 仕事によってのみ人は評価される。相対主義が覆う現代社会で「無意味な」学問を天職として続けられるのか。

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2019/01/16

社会学の泰斗、その晩年の講演。 端的にまとめられた学問を取り巻く状況や今日的な意義、そして私たちのとるべき態度といった内容から、(本人は拒否するだろうが)学者でもあり、教師でもあり、指導者でもあったウェーバーの偉大さに感心するばかり。 世界が魔術から解放されたとき、再び神々が...

社会学の泰斗、その晩年の講演。 端的にまとめられた学問を取り巻く状況や今日的な意義、そして私たちのとるべき態度といった内容から、(本人は拒否するだろうが)学者でもあり、教師でもあり、指導者でもあったウェーバーの偉大さに感心するばかり。 世界が魔術から解放されたとき、再び神々があい争う時代に(神話は啓蒙であった、啓蒙は神話に退化する―アドルノ=ホルクハイマー)、安易な救いや啓示をもたらす救世主や預言者はいないし、それを無理やり地上に甦らせるわけにはいかないと説くウェーバー。 学問に従事する人々だけでなく、リキッドモダン(液状化した近代―ジグムント・バウマン)に生きる私たちすべてが、価値判断の脅迫から距離を置く態度を教えてくれている。 もうひとつの講演とあわせて、その時その場で、ウェーバー自身の肉声で聞きたかった。

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2020/11/23

マックス・ウェーバー(1864~1920年)は、ドイツの政治・社会・経済学者。社会学の第二世代を代表する学者で、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905年)は、社会学の名著として有名である。 本書は、著者が死去する前年の1919年1月にミュンヘンで大学生向けに行わ...

マックス・ウェーバー(1864~1920年)は、ドイツの政治・社会・経済学者。社会学の第二世代を代表する学者で、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905年)は、社会学の名著として有名である。 本書は、著者が死去する前年の1919年1月にミュンヘンで大学生向けに行われた講演(更にパンフレットとして出版され、死去後『科学論論集』に収められた)の邦訳である。(姉妹編の『職業としての政治』もほぼ同じ時期のものである) 本書を読むにあたっては、本公演が、キリスト教の支配する世界、かつ、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)終戦直後の敗戦国ドイツ・ミュンヘンにおいて、人々の心が大戦後の動揺と既存の秩序に対する疑惑に満ちていた中で、感受性に富む青年たち(大学生)向けに行われたものであることを踏まえる必要がある。 本書でウェーバーが言わんとしたことは、大まかにいえば以下である。 ◆「学問がいまやかつてみられなかったほどの専門化の過程に差しかかっており、かつこの傾向は今後もずっと続くであろうという事実である。・・・実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家になしとげられたものばかりである。」 ◆「学問のばあいでは、自分の仕事が・・・いつか時代遅れになるであろうことは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。」 ◆学問の意味は、「それを欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということ、したがってそこにはなにか神秘的な、予測しえない力がはたらいている道理がないということ」を知ることである。 ◆学問は、「われわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えない」。 ◆「政策は教師の側からいっても教室で取りあげられるべきものではない。・・・なぜなら、実践的政策的な立場設定と、政治組織や政党の立場に関する学問的分析とは、全く別のことだからである。」、「こんにち一部の青年たちが犯している誤りは、・・・講義者のなかに・・・教師ではなく指導者をもとめていることにあるのである。」 ◆「学問はいったい個々人の実際生活にたいしてどのような積極的寄与をもたらす」のか? それは「技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか」と「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」と「明確さ」である。 「純粋な学問(日々の仕事)に立ち返れ!」と若者を叱咤しつつ、その主張は、学問は「いかにあるか/存在(sein)」は明らかにできても「いかにあるべきか/当為(sollen)」は明らかにできない、という学問の限界を的確に指摘しており、「学問とは何か?」(というより「科学とは何か?」)を考えるにあたり、現代でも耳を傾けるべきものである。 (ウェーバーの文章は非常に複雑と言われるものの、1936年訳の本書はかなり読み難い。新訳の講談社学術文庫の方が読み易いかもしれない) (2018年12月了)

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2018/12/13

原書名:Wissenschaft als Beruf(Weber,Max) 著者:マックス・ヴェーバー、1864ドイツ-1920、社会学者・経済学者、ハイデルベルク大学、ベルリン大学卒、フライブルク大学・ハイデルベルク大学教授 訳者:尾高邦雄、1908-1993、社会学者、東...

原書名:Wissenschaft als Beruf(Weber,Max) 著者:マックス・ヴェーバー、1864ドイツ-1920、社会学者・経済学者、ハイデルベルク大学、ベルリン大学卒、フライブルク大学・ハイデルベルク大学教授 訳者:尾高邦雄、1908-1993、社会学者、東京帝国大学社会学科卒、東京大学文学部教授

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2018/11/05

ウェーバーによる1919年1月の講演。時は第一次大戦直後。ドイツは敗戦、革命、飢餓の混迷の只中にあった。解説によると、ウェーバーは愛国的な人物であったらしいが、この時代背景を考えると本当に気合のこもった講演である。講演ゆえに、勢いに任せたような面白さもある。 学問と政策の違いが...

ウェーバーによる1919年1月の講演。時は第一次大戦直後。ドイツは敗戦、革命、飢餓の混迷の只中にあった。解説によると、ウェーバーは愛国的な人物であったらしいが、この時代背景を考えると本当に気合のこもった講演である。講演ゆえに、勢いに任せたような面白さもある。 学問と政策の違いが説かれ、学問は主観的な価値判断から自由でなければならず、教師は政治的立場を生徒に押し付けてはならないとされる。一方、この講演は学問と言うより政策の口調で語られている。しかし学問はそれ自身が知るに値するものかどうかという前提については答えることができない、と言うのだから、学問の意義を語るには政治の言葉を用いるしかないのは当然なのかもしれない。 アメリカの学問の実利主義ぶりをくさしている所は、内田樹の教育論とおんなじ。 「学問の領域で「個性」を持つものは、その個性でなくて、仕事に仕える人のみである」

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2018/05/30

・5/29 読了.だめだ、回りくどくて何を言いたいのかいまいちわからない.教員になるのは大変よという話かな、つまりは.よく考えろよ、と.ここはアメリカじゃないんだから、と.

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2017/12/22

マックスウェーバーの講演。トレルチがキリスト教絶対主義の蓋を外し、宗教の多元性を明らかにすることによってひらけてきた新しい価値観。その影響を大いに感じさせる理性と実存を峻別させるような一冊。教師と指導者は別であると。信仰や実存的生は学問の延長にあるものではないときっぱり言い切ると...

マックスウェーバーの講演。トレルチがキリスト教絶対主義の蓋を外し、宗教の多元性を明らかにすることによってひらけてきた新しい価値観。その影響を大いに感じさせる理性と実存を峻別させるような一冊。教師と指導者は別であると。信仰や実存的生は学問の延長にあるものではないときっぱり言い切るところは気持ちいい。 17.12.22

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2017/11/29

職業としての学問は、 10年後、20年後、50年後には知識として古くなる。 つまり、常に進歩、前進することを前提にしていて、そうゆう宿命にある。 「われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない」 かつ、...

職業としての学問は、 10年後、20年後、50年後には知識として古くなる。 つまり、常に進歩、前進することを前提にしていて、そうゆう宿命にある。 「われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない」 かつ、 価値があるということを肯定することを前提として成り立っている。 法律等もそうであり、 法律自体が必要なのか? 学問自体が必要なのか? そういったことは、必要ということを前提としている為に、 その問いに対しては、 その基本的価値を証拠だてることはできない。 ここから読み取れることは、 物事の考えや発言には、 前提となるものがある。 その前提を汲み取ることができれば、 より本質を観る観点を持て、現状を打開できる。 このマックス・ウェーバーの思考の仕方、名付けて前提論とでもいおうか。 読書によって知識を得るということ以上に大切なことは、 思考のプロセスを追体験することで、 その著者の思考法を自身もできるようにすること。 なぜなら世紀を超えた一流人の思考を自身もできるようになるということは、 同じものの見方や視点を持てるということに他ならないからだ。 世界の見え方が変わり、益々世界は面白くなる。 それが読書の醍醐味だ。

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