破戒 の商品レビュー
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勝野君なぞは開化した高尚な人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言うのだね。は丶丶丶丶。僕は今まで、君もあの先生も、同じ人間だとばかり思っていた。 丑松のこのセリフ。ダイレクトで強烈なメッセージだ。生い立ち、身分、性別、老若、貧富、障害の有無。 全ての差別(差別意識)が馬鹿らしく思えて来る。 人としての根幹を問われた気がした。 そして、この差別社会の中で、ひたすら周囲に出生を隠し、自身までをも欺き通す苦悩。 丑松自身、清廉であるが故にこの苦しみは耐え難かっただろう。終盤、彼のこぼした涙が胸を抉る様だった。
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なんという苦悩だろうか。自分では選べない出自によって、人並みの生活が送れないほどの差別を必然的に受けることになるとは。 主人公は瀬川丑松、24歳、信州で小学校教師をしています。父親から「隠せ」と厳しく戒められてきたとおり、自分が被差別部落出身の穢多であることをひた隠しにして...
なんという苦悩だろうか。自分では選べない出自によって、人並みの生活が送れないほどの差別を必然的に受けることになるとは。 主人公は瀬川丑松、24歳、信州で小学校教師をしています。父親から「隠せ」と厳しく戒められてきたとおり、自分が被差別部落出身の穢多であることをひた隠しにしています。 入院していた病院で穢多であることが広まり追い出され、戻された下宿でも「不浄だ」と罵られ追い出される富豪の大日向や、「我は穢多なり」の一文で始まる『懺悔録』を書いた著述家猪子蓮太郎といった人々を目の当たりにし、丑松は〈同じ人間でありながら、自分らばかりそんなに軽蔑される道理がない、という烈しい意気込を持〉ちつつも、友人知人、恋心を抱く相手や、慕ってくる生徒たちのことを思うと、自分が穢多であるとは言えず、苦しみは増すばかり。 信州の長く厳しい冬の描写が、丑松の不安に同調し、読んでいる者の心も鬱々とさせます。しかし、ある出来事をきっかけに丑松が目覚めてからは、なんとまあハッキリしっかりくっきり、冬の朝日のまぶしいこと。 ラストは、そう来ましたか藤村さん、という感じ。瀬川丑松の再スタートとして、新たな人生への旅立ちとして、素晴らしいラストだと思います。ただ個人的には、こうなって欲しかったな、こうなったところを見てみたかったな、という思いもあります。ま、想像と違っていたというか、想像を超えたラストだった、と書いておきましょう。 全体的に文章のリズムが良くて、声に出して読みたくなりました。 読書力養成読書、12冊目。
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恥ずかしいことに、この小説を初めて読んだ。 私はとても良い作品を読めたと感じた。 まず、山々や、山間の村の様子など、自然や風景の描写が美しかった。島崎藤村はやはり詩人でもあるのだと感じる。むしろ登場する人々やその内面の表現よりも、丑松が故郷への旅をする場面や、いよいよ告白をする直前、雪の飯山の町の光景などが、私には美しく表現されていると思われた。 それは藤村自身が、信州の風景を、深い山と雪の風景を愛しているからではないだろうかと思う。また、作品の中には、「北信州の人は…」という言い回しも多用される。彼は地元の人々の人となりにも愛着を感じていないはずがない。私は信州ではないが、地理的には近く、連峰を常に眺めながら育ったという点では、どちらかというと藤村に共感できるように思った。つまり、読んでいて自分自身、故郷とその山々、家族が思い出され、心動かされた。 次に、丑松の苦悩する様子も、こちらまで苦しくなってくるような心持がするほど、心に迫ってくるものがあった。実際、読んでいる途中、夜中に苦しい悪夢を見たが、どうも本書に関係しているようだった。。 巻末の野間宏の解説では、本書の欠点として、部落の問題を本質的に解決できていないことや、藤村が丑松に自身の内面を投影したに過ぎないと述べている。確かに、その通りであると思う。丑松は、なぜ謝る必要があったのかと私も疑問に思ったし、最後の場面も、単に都合主義的に国外へ逃れることで問題に向き合っていないようにも思う。 ただ、確かに、部落問題という重要な具体的なテーマを仮託するにはこの小説が機能不全だったとしても、例えば、丑松が被差別部落民だったというのは、ある一つの場合であり、例であって、例えば別のものであってもいいのではないかとも考えてみた。今から見れば全く狂気としか思えないような偏見で、不当に差別を受け、それが当たり前の状況になっている社会。現代では、何が被差別の対象になるかは、ネットがあるのでころころ変わるが、カミングアウトの内容はそれこそLGBTに関連することでもいい。それに置き換えて考えてみても、言わない方が波風を立てずにうまくやっていける可能性も高い。それでも・・と苦悩する様は、明治のころから、この小説と大きく枠組み自体は変わっていないと考えさせられるようにも思った。現代から見て本書は、そういう読み方もできるのではないかとも思った。 (思うだけなら人には自由がある(ただそれを、発信?してはいけない?)。 だからこのブクログの記事は、もともと、自分の記録用と断っている。) 確かに、根本的な具体の問題解決にはなっていないが、そこまでをこの小説で求めるというのもなかなか厳しいのではないかとも思う。 また、丑松が作者の内面をただ投影しているにしても、それであっても、私は例えば、猪子先生に告白をしようとして、できずにいたり、著作を処分してしまうような様子に、共感できるような場面は、誰しもにあるのではないかとも思う。
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世間が作り上げた軛があまりにも大きすぎて、自らもそれを打ち破れない。 自分を認めるというそのことですら、自分の価値を認めるという意味とは全く違う。 そして、その軛に苦しむ彼らですら、「女は」とまた別の差別を当然のように行う。 それが当時の世間が作り上げた「普通」で、それから外れる...
世間が作り上げた軛があまりにも大きすぎて、自らもそれを打ち破れない。 自分を認めるというそのことですら、自分の価値を認めるという意味とは全く違う。 そして、その軛に苦しむ彼らですら、「女は」とまた別の差別を当然のように行う。 それが当時の世間が作り上げた「普通」で、それから外れることは難しく、また考えもつかない事であった。 今を生きる私たちは、それが軛であることも、普通ではないことも知っている。 知っているが、ではその軛から完全に開放されたのかと言えばそうではない。 昔話だと笑える時代にはなっていない。 いつかこの小説が、時代背景の解説なしに読めないような時代が来るのであろうか。
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プロットがうまい。一種の倒叙型のミステリーである。また勧善懲悪、救いをもたせるあたりは作者の甘さか。考えさせられるという意味では、LGBTQの問題など、現代的な普遍性があるか。
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破戒 (和書)2009年02月12日 21:00 2002 岩波書店 島崎 藤村 以前から読もうと思っていて、でもなんだか怖く難解な本ではないかと思いながらなかなか読まずにいました。思っていたより読み易く内容的にも怖い話ではなかった。 「たとえいかなる目を見ようと、いかなる...
破戒 (和書)2009年02月12日 21:00 2002 岩波書店 島崎 藤村 以前から読もうと思っていて、でもなんだか怖く難解な本ではないかと思いながらなかなか読まずにいました。思っていたより読み易く内容的にも怖い話ではなかった。 「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅おうと決してそれとは自白けるな、一旦の憤怒悲哀にこの戒め忘れたら、その時こそ社会から捨てられたものと思え。」 この戒めを破ることを「破戒」といっている。主人公、丑松が破戒を決意し実践する場面では読んでいて目に涙を浮かべてしまいました。 ただ文学としてそれが思想・世界思想・文学として成立するには宗教の批判(マルクス)というものが必要になると思うのでこの階級闘争には普遍性があるのだろうと思う。大西巨人の作品にもこれらを扱った作品があったしこの作品に触れたものもあったと記憶している。なかなか読まずにいたので読み終わってすっきりしました。
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英語でniggerという言葉を読んでも、その言葉の持つインパクトは伝わってこないが、日本語では普通使われることない差別的な蔑称が堂々と出てくると、さすがにたじろいでしまう。アメリカ人がトムソーヤーとかハックルベリーフィンとか読むときに感じる、その中で使われている用語に対する抵抗感...
英語でniggerという言葉を読んでも、その言葉の持つインパクトは伝わってこないが、日本語では普通使われることない差別的な蔑称が堂々と出てくると、さすがにたじろいでしまう。アメリカ人がトムソーヤーとかハックルベリーフィンとか読むときに感じる、その中で使われている用語に対する抵抗感というのは、こんな感じなのかもしれない。 日本の自然主義文学の先陣を切った作品として、この作品が日本文学史に占める位置は高く、誰でもその名前は知っている。 知っているけれども、テーマが重たいので、これまで敬遠してきた。 読んでみると、それほど難しい話ではなく、最初は単語にとまどうけれども、そんなに抵抗感なくすらすら読める。 タイトルが戒めを破るという意味であるというのも、読んでみて初めて知った(なんとなく破壊だと思っていたた)。 ただし、その限界は明確である。 被差別部落出身の主人公を描く作家の姿勢は、差別がおかしいという批判はしていても中途半端で、しかたがないのだと半分以上肯定しているようにしかとれない。だからこそ最後の教室のシーンで、丑松が生徒に跪いて詫びるのだが、いくらなんでもあんまりだ。水平社宣言が出るのが1922年、それからわずか15年しか経ておらず、時代的な思想上の制約はあるとしても、その感覚は批判を免れない。 島崎藤村は才能あふれる文学者であることは間違いないが、こうした題材をとりあげて、あえてこのような展開にしてしまうというのは、どこか欠落を感じさせる。われわれは作家に道徳家を求めているわけではなく、トルストイやドストエフスキーといった人々も別に人格者でもなんでもなく、個人生活ではかなり悪辣なところもあったはずだが、こと作品世界においては、人間の尊厳に対する感覚は信頼できる。そこのところが少し、いやずいぶん違うと思う。
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"部落差別について、その不条理、心情、世間の風、などを知ることのできる小説。文学。 生まれた場所で、村で差別をしていたこと。脈々と紡いだ歴史の中でそれが積み重ねられ、明治、大正、昭和にかけても名残があったことを知る。"
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穢多の存在は知っていたが、差別の中身については初めて知った。穢多であると告白するかしないか、それは自分とは何者なのかを告白することである。主人公がぐるぐる考え続ける薄暗い作品だった。
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ただただ「根が深い」という感覚を覚えた。 同和問題は西日本で主に語られる、という印象でいたが、舞台は長野である。 主人公の瀬川丑松が段々と追い詰められる様は読み応えがあった。「川の向こう・・・」という表現が、本当に出てきた表現であり、戦後であれそれは存在した表現であるそうだ。 そして、彼が独白するシーンの後、生徒が校長室に直談判をしにいく、その様も感動的であった。 最終的に彼は厄介払いのように扱われてしまう。 同和問題は今にも尾を引く問題である。大阪符豊中市の森友学園の場所は、関西では公然の秘密のように語られる場所であるそうだ。今後どうなっていくのか。問いかけられている気がした。
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