悩む力 の商品レビュー
みすず書房 斉藤道雄 「悩む力」 べてるの家 の人びと 総合失調症患者の共同生活の場であり、仕事の場でもある「べてるの家」の活動記録。病気を折り込みながら 自立的な生活と仕事の日々を送っている 病気を折り込んだ自立支援の例 *不平等の貫徹〜できる人が仕事をし、できない...
みすず書房 斉藤道雄 「悩む力」 べてるの家 の人びと 総合失調症患者の共同生活の場であり、仕事の場でもある「べてるの家」の活動記録。病気を折り込みながら 自立的な生活と仕事の日々を送っている 病気を折り込んだ自立支援の例 *不平等の貫徹〜できる人が仕事をし、できない人は仕事をしない *三度の飯よりミーティング〜議論をしつくすことを目的とする *自由と安心感が商売につながる〜病気が出れば サボってもいい この本には書いてないが、治すことができない精神医療の限界と ここまで 寛容的にはなれない一般企業の障害者雇用の難しさを感じた 著者のメッセージ *病気に悩み、苦しみながら、病気とともに生きることに 生の豊かさがある *人はパンのために生きているのでなく、人間同士のつながりのために生きている VEフランクル「人生の意味を考えてはいけない〜この人生から自分は何を問われているかを考えなければならない」
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北海道の「ベてるの家」に通い続けた、ジャーナリスト斎藤道雄さんの記録です。 作家のいしいしんじさんがツイッター上で紹介されていて読みました。読みながら、いろいろなことを考えました。「悩む力」とは統合失調症を生きている人についてのことばなのか、医者やソーシャルワーカーとして彼ら...
北海道の「ベてるの家」に通い続けた、ジャーナリスト斎藤道雄さんの記録です。 作家のいしいしんじさんがツイッター上で紹介されていて読みました。読みながら、いろいろなことを考えました。「悩む力」とは統合失調症を生きている人についてのことばなのか、医者やソーシャルワーカーとして彼らと出会っている人についてのことばなのか、ジャーナリストとして、その場にいる人についてなのか、あるいは、この書物を読んでいる読者である「ぼく」についてなのか。 最終的に、「ぼく」の問題として、「悩む力」という言葉について考えることになりましたが、そんな本に出合うのは久しぶりのことでした。 いしいしんじさん、ありがとうございました。 ブログにも感想書きました。覗いてみてください。 https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202107240000/
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【繋がる】 人はなんのために生きるのか? 人間の繋がりのために生きている。 病気を抱えている時は みんなと一緒にいること みんなの中に入って、自分のことを話すこと。 精神障がいを抱えている人達の生き方に学ぶことで、誰もが幸せに生きられるだろう。
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# 悩む力 この本の中に私は自分を発見し、生き生きとした人間の生を感じました。こんなに幸せなことはなかなかないと思う。この本は、分裂病患者が共同生活を営む「べてるの家」を取材したドキュメンタリーである。 記録に、印象に残った言葉たちを記しておこうと思う。 ・(べてるでのSST...
# 悩む力 この本の中に私は自分を発見し、生き生きとした人間の生を感じました。こんなに幸せなことはなかなかないと思う。この本は、分裂病患者が共同生活を営む「べてるの家」を取材したドキュメンタリーである。 記録に、印象に残った言葉たちを記しておこうと思う。 ・(べてるでのSST社会技能訓練について記した項で。) 「じつにかんたんな会話のようであっても、メンバーの一人ひとりはSSTに集まることによってひとつのことを確認しているかのように思える。私たちはつながっていたいと。(中略)こうしたひとつひとつのことが、彼らをつなぎとめ、人間の輪の中に引き戻し、ひいては人間関係を取り戻すことに繋がっている。」 自分が休職していた頃のことを考えると、社会から断絶された孤高の存在であったと思う。少し元気になってくるとそのことに気づき、虚しくなった。いま自分が会社で働き、社会の一員として認められているという自覚が、今のしあわせな自分を作り出しているのだと、つくづく思う。そういう意味では、私も「つなぎとめられている」ことによって今の自分を保っているのだろう。 ・向谷地さんの言葉 「私たちは、生活を便利にしたり豊かにしたり、自分にないものを身につけたりいろいろな努力をしているが、そういうこととは無関係に、生きることに悩みあえぐという力が与えられている。そういうことを忘れている。(中略)実は人間は、どんな境遇に生まれようとどんなに恵まれていようと、ちゃんと悩む力をもっている。」 そうか、精神病患者は悩み上手なんだな。 ・分裂病患者 長友ゆみさん 「ほんとうにこわくなるというより、こわくなりそうになる、その前兆におびえてしまう。自分がどうなるかわからない、あるいは何をするかわからなくなりそうな、そのこわさ。 『いつも自分のことばかり考えてるから。そこが病気なんです。自分と付き合うのに苦労するから。もっと自信持てればいいんだろうけど。』」 前兆に怯えるということ。それはまさに今、私が経験していることです。 ・ミシェル・フーコー『狂気の歴史』 精神病をつくりだしている澄みきった世界では、もはや現代人は狂人と交流してはいけない。すなわち、一方には理性の人が存在し、狂気に向かって医師を派遣し、病気という抽象的な普遍性をとおしてしか関係性をみとめない。他方には狂気の人が存在し、やはり同じく抽象的な理性、つまり秩序・身体的で精神的な拘束・集団による無名の圧力・順応性の要求たる理性を介してしか理性の人と交流をもたない。両者のあいだには共通な言語は存在しない、むしろもはや存在しないのである。 ・べてるの良いところは、病気をあけっぴろげに笑ったり、平気で不謹慎な言葉でもって迎合しているところだと思う。例えば、分裂病真っ只中の人に向かって「落ちるとこまで落ちな。見ててあげるから。ばいばーいって。ワハハ」また、ある人は、自分のことを「おれ、アッパラパーだからさ」という。病気に真に向き合っているのだと思う。そこには、誰も病気を隠す人はいないし、なかったことのようにして生きる人はいない。そこが、わたしが今生きる社会とは大きく異なるところだと思う。
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後輩から勧められて読んだ一冊。べてるの家の名前は知っていたが、「どうせキリスト教だろ?」との先入観があった。斉藤道雄はガラスのように透明な文体で微妙な揺れや綾(あや)を丹念に綴る。本書で第24回講談社ノンフィクション賞を受賞した。 http://sessendo.blogspot...
後輩から勧められて読んだ一冊。べてるの家の名前は知っていたが、「どうせキリスト教だろ?」との先入観があった。斉藤道雄はガラスのように透明な文体で微妙な揺れや綾(あや)を丹念に綴る。本書で第24回講談社ノンフィクション賞を受賞した。 http://sessendo.blogspot.jp/2016/09/blog-post_3.html
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べてるの家について述べられたもの。 精神病は治らなくても良いと考えている患者もいる。 精神病はある一定の閾値を超えた人に過ぎないのではないかと思った。 会話をすることの大切さ。これはミーティングを行う事にも表れている。結論は出なくても話すことが大切。
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精神疾患を持つ人々が共同で暮らす北海道の「べてるの家」のルポ。精神病に馴染みのない人が読んでも感じる事、教えられる事が沢山ある。社会からこぼれ落ちた(排除されてしまった)人々が寄せ集まり、自分を語り、周りとつながりながらその人の人生を生きている姿は、私たちが普通だと思っている人生...
精神疾患を持つ人々が共同で暮らす北海道の「べてるの家」のルポ。精神病に馴染みのない人が読んでも感じる事、教えられる事が沢山ある。社会からこぼれ落ちた(排除されてしまった)人々が寄せ集まり、自分を語り、周りとつながりながらその人の人生を生きている姿は、私たちが普通だと思っている人生よりも、どれだけ人間らしく豊かな生き様だろう。病気を抱えて苦労して生きている人は絶対大変だしかわいそう、守られるべき、と思う自分の感覚自体が、その人たちを生きにくくし、排除している社会の一部であることを分かった時、愕然とした。
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北海道の浦河にある精神障がい者の施設「べてるの家」は、どんな患者も排除せず、昆布製品の販売等で利益をあげている稀有な施設。 べてるの家の考え方は、精神病を完治させるのではなく、病とともにある人生を肯定して幸せに生きようというもの。精神病の完治は非常に難しく、それを目的にした人...
北海道の浦河にある精神障がい者の施設「べてるの家」は、どんな患者も排除せず、昆布製品の販売等で利益をあげている稀有な施設。 べてるの家の考え方は、精神病を完治させるのではなく、病とともにある人生を肯定して幸せに生きようというもの。精神病の完治は非常に難しく、それを目的にした人生は苦しい。それならば、病ありの人生を幸せにしてゆこうという凄い考え方。病ありの人生にだって苦労はある。その苦労をすることでより味わい深い人生になると考える。べてるの家の考え方は、ある意味で超ボジティブ。そのポジティブさが、どこにも居場所を見つけられなかった患者たちを支えているのかも知れない。
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「魔性の女」の章を読んでいて、ショックを受けた。べてるの家の何がすごいのかを考え続けてきたが、「他者への思い」をこめた会話を続ける「場」としてのべてるの家という表現がある。互いにつながり続けることそのものが目的の「場」。 そういう「場」って、あまり無いように思う。会社、職場は...
「魔性の女」の章を読んでいて、ショックを受けた。べてるの家の何がすごいのかを考え続けてきたが、「他者への思い」をこめた会話を続ける「場」としてのべてるの家という表現がある。互いにつながり続けることそのものが目的の「場」。 そういう「場」って、あまり無いように思う。会社、職場はもちろん違う。家族や友人関係が近いように思えるが、私自身の家族や友人関係のなかには、どこか功利的なものがあるように思えてしまう。 内田樹のいう「交話的こみゅにけーしょん」、「最後のセーフティ・ネットとしての家族」というのを、連想した。
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2002年発行。外部のジャーナリスト、斎藤道雄さんによる取材をまとめたもの。べてるのこれまでと現在を描いているが、同時に筆者自身が、べてると出会い、語り、受容し、変容する様子が描かれている。
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