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「中間者」の哲学 の商品レビュー

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2020/08/13

『精神としての身』(1992年、講談社学術文庫)などで独自の身体論を展開した著者が、「身分け」というキーワードにもとづいて、人間の世界認識のありようについて考察をおこなっている本です。 著者は「身分け」を、世界を分節すると同時に自己を分節する力能として理解しています。ただし「身...

『精神としての身』(1992年、講談社学術文庫)などで独自の身体論を展開した著者が、「身分け」というキーワードにもとづいて、人間の世界認識のありようについて考察をおこなっている本です。 著者は「身分け」を、世界を分節すると同時に自己を分節する力能として理解しています。ただし「身分け」は、生物学的な本能にもとづいて一つのありかたに定められているようなものではありません。著者は、人間の認識能力がかぎりない可能性を秘めていると考えており、ヴァレリーの「錯綜体」という概念を引用しながら、「身分け」のもつ潜在的な可能性を指摘しています。 そのうえで、アレグザンダーのセミ・ラティスの概念についての考察をおこないつつ、感性的認識から理性的認識にわたる人間の認識能力の諸相およびその諸可能性についての議論を展開しています。おおむね著者の議論は、ピアジェの構造論的な発達心理学の枠組みを踏まえつつ、それを実証的な心理学の地平から解き放って、哲学的な思索へと発展させたものというべき内容になっています。そこではまた、人間の認識と行動を連続的なスペクトラムのなかで把握しようとしたベルクソンの立場や、ベルクソン哲学を引き継ぎつつ人間の「中間者」としてのありかたに注目したテイヤール・ド・シャルダンの議論なども踏まえられています。 「身」ということばをめぐる具体的な議論や、実証的な心理学の知見に足場を置きつつ、そこから哲学的な洞察へと議論を展開していく著者のスタイルに興味を引かれました。

Posted byブクログ